村井邦彦×吉田俊宏『モンパルナス1934~キャンティ前史~』連載スタートに寄せて

『モンパルナス1934』序文

吉田俊宏による序文

 『モンパルナス1934』のタイトルは村井邦彦さんが考案した。私は「ちょっと時差ぼけ」という寝ぼけたパロディーを思いついたが、ピントが合っていたのは明らかに村井さんの方だった。
 『モンパルナス1934~キャンティ前史~』は「小説のように書こう」と村井さんと話している。できるだけ史実に基づいたフィクションという形になるだろう。
 主人公はキャンティの創業者、川添浩史だ。彼は映画を学ぶためパリに留学し、モンパルナスのアパルトマンで暮らし始める。昭和9年、1934年のことだ。すべてはここから始まったのである。
 キャンティには三島由紀夫や安部公房、黒澤明、千田是也、浅利慶太といった大物が訪れ、そこに加賀まりこ、大原麗子、安井かずみ、萩原健一といった当時の若手が加わって文化人のサロンと化したことはよく知られている。しかし、こんな店が偶然、ポッと生まれるはずがない。戦前の1934年までさかのぼり、キャンティ以前に何があったのかを解き明かしていくのが、この物語の主眼である。

 戦前のパリに、21歳の川添を中心にモンパルナス人脈ともいえる交流の輪ができた。ほとんどが同世代で、誰もがとても若かった。川添の生涯の友となる井上清一、世界的な報道写真家に成長するロバート・キャパ、キャパの恋人ゲルダ・タロー、川添の最初の妻になるピアニストの原智恵子、日本を代表する建築家になる坂倉準三、誰もが知っている美術家の岡本太郎、フランス文学者の丸山熊雄……。若い彼らはモンパルナスのル・ドームやラ・クーポールといったカフェに集い、芸術談議に花を咲かせた。
 川添たちがパリにいたのは第一次世界大戦と第二次大戦の間、いわゆる「戦間期」と呼ばれる時代だが、エコール・ド・パリの芸術家たちが活躍した1920年代の明るさ、華やかさは1930年に入ると次第に失われていった。世界大恐慌の荒波がフランスにも押し寄せ、国民は困窮し、ストライキが相次いだ。隣のドイツはナチスの独裁国家になり、ヒトラーの脅威は年を追うごとに増大していく。母国の日本はといえば、満州事変、国際連盟脱退などで国際的に孤立し、パリの知識人たちが日本に向ける目も厳しくなっていった。
 そんな暗雲が垂れ込める中で暮らしていた川添たちに朗報がもたらされる。モダニズム建築の巨匠ル・コルビュジエの事務所で働いていた坂倉準三が1937年、パリ万博の日本館の設計でグランプリを受賞したのだ。日本の近代建築が初めて世界に認められた瞬間だった。一見するとモダニズム建築なのだが、日本の伝統建築と西洋の現代技術が共存し、調和している点が高く評価されたのである。特に「建築と庭園の結合」が日本精神の象徴とみなされた。
 世界に通じる国際性と日本の伝統。この2つは両立させることができる。坂倉自身はもちろん、彼の仕事を間近で見ていた川添や井上たちもそう実感したことだろう。1970年の大阪万博では、坂倉が電力館の設計を担当し、川添は富士グループ・パビリオンのプロデュースを手がけることになる。奇しくも2人とも万博の開幕を間近に控えて相次いで亡くなってしまうのだが、両者の念頭には常にパリ万博日本館があったに違いない。

ちょっとピンぼけ
ダヴィッド社刊の『ちょっとピンぼけ』(1956年11月30日初版、1978年9月1日19版)。カバー写真はアンリ・カルティエ・ブレッソン撮影

 パリに留学していた日本人の大半は、第二次大戦が始まる前に帰国を余儀なくされた。川添たちも例外ではなかった。ハンガリー出身のキャパはアメリカに渡り、アメリカ人として戦地を取材することになる。一方、日本に戻った川添は井上や坂倉らとともに、歴史哲学者の仲小路彰らが結成した「スメラ学塾」、その文化サロン「スメラクラブ」に加わり、独自の活動を繰り広げる。
 川添、井上とキャパは固い友情で結ばれていた。3人とも母国で左翼運動にかかわったことで当局に捕まり、国を追い出される形でパリにたどり着いているだけに、その絆は強かった。それが戦争を機に思いがけず敵同士になってしまったわけだ。戦後しばらくして、ようやくキャパの来日が実現し、川添たちと感動の再会を果たす。ところがキャパは日本を離れた後、ベトナムの戦地で地雷に触れて亡くなってしまうのである。後に川添と井上はキャパの著書『ちょっとピンぼけ』を訳出し、今も名著として読み継がれている。
 『モンパルナス1934』の柱の一つは、川添とキャパの友情物語になるだろう。
 川添は高松宮殿下の知遇を得て、国際文化交流プロデューサーとして社会的な地位を確立する。日本文化の世界発信に努め、吾妻徳穂の『アヅマカブキ』の欧米公演を成功させるなど、数々の成果を上げていくのである。

 高校時代からキャンティに通いつめ、川添の薫陶を受けた村井さんは、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の世界進出を「これはアヅマカブキの延長である」と考えていたという。国際文化交流のバトンを確かに受け取ったと自覚していたのである。
 「吉田さん、一緒に何か書こうよ」と村井さんからお誘いを受けたのは少し前のことになるが、それがこうした形で実現するとは予想もしていなかった。これから村井さんと共同で「キャンティ前史」を訪ねる旅に出る。小説のように書くといっても、はてさて、どうなるか。村井さんにも、私にも分かっていない。まさに地図のない旅だ。
 村井さんの住むロサンゼルスと日本は17時間も時差がある。お互いに「ちょっと時差ぼけ」になりながら、オンライン会議やメールのやり取りを繰り返し、共同執筆に備えている。『モンパルナス1934』で描く先人たちの物語が、国際社会における日本の立ち位置を探るヒントになれば望外の喜びである。

吉田俊宏
吉田俊宏

■吉田俊宏(よしだ・としひろ)日本経済新聞社文化部編集委員
1963年長崎市生まれ。神奈川県平塚市育ち。早稲田大学卒業。86年日本経済新聞社入社。奈良支局長、文化部紙面担当部長などを経て、2012年から現職。長年にわたって文化部でポピュラー音楽を中心に取材。インタビューした相手はブライアン・ウィルソン、スティーヴィー・ワンダー、スティング、ライオネル・リッチー、ジャクソン・ブラウン、ジャネット・ジャクソン、ジュリエット・グレコ、ミシェル・ペトルチアーニ、渡辺貞夫、阿久悠、小田和正、矢沢永吉、高橋幸宏、松任谷由実ほか多数。クイーンのファンでCDのライナーノーツも執筆。

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