寺尾紗穂『北へ向かう』はなぜ聴く者の心を動かすのか? 情景を通して歌われる「生命の愛おしさ」について

寺尾紗穂『北へ向かう』で歌った生命の愛おしさ

 また、今作の特異なところは、アルバムのラストがセルフカバー曲で締め括られることである。「夕まぐれ」は2009年リリースの『愛の秘密』に収録されていた曲で、原曲がピアノの弾き語りだったのに対し、今作の再録版では“エレクトリックギターバージョン”として、マヒトゥ・ザ・ピーポーが演奏に参加している。さらに面白いのは、この楽曲が10年以上前の既発曲だとは気づかないほど今作に馴染んでいる上に、アルバムの結びの1曲として欠かせない存在になっているということだ。

寺尾紗穂「夕まぐれ」
寺尾紗穂「夕まぐれ - エレクトリックギターバージョン」

 その「夕まぐれ」と強い連関を生み出しているのが1曲目「夕刻」で、『苦海浄土』などで知られる作家・石牟礼道子の詞に寺尾が曲をつけたもの。アンビエントなノイズが1分間に渡って鳴り響いた後、淡い夕刻の光によって空と海の境界線が曖昧になっていく様が歌われ、その中で1羽の鳥が死を迎える。〈鳥が......死ぬ〉という直接的な言い回しにゾッとするかもしれないが、ここで言う「死」はネガティブなものではなく、「夕まぐれ」の言葉を借りるなら、“自由”になった瞬間を表しているように思う。空と海が溶け合い、あらゆる隔たりや境界線がなくなった時間帯に、地上での役目を終えた生命が安らかに天に召されて行くような感覚。8曲目「そらとうみ」もそうだが、情景を通して、生命の営みを見守る優しい眼差しが歌われているのだ。

寺尾紗穂「夕刻」
寺尾紗穂「そらとうみ」

 なので、この作品自体も決して死を嘆いてはいない。生と死の狭間で懸命に生き、小さいながらも確かな愛を育み、誰かの幸せを祈りながらも、最期は儚く散っていく生命の営みをそっと包み込む。それを象徴するように、ジャケット写真では精一杯生きるナメクジに愛おしさを見出している。あるいは、愛を育む二羽の鳥を美しいと思ったり、大切な人と出会った意味を探したりするのも、きっと同じ想い故だ。

 〈夕まぐれ 私ひとり/愛したひとの今頃と/愛した私のこれからと/自由な空〉と歌われて今作は締め括られる。死して会えない人に想いを馳せたり、遠く離れている人と心で繋がったり。境界線のない自由な空の下で、そんな愛おしい時間について書き留められた「夕まぐれ」は、今の寺尾が歌う意味が大いにある楽曲だと思う。

 忙しない現代社会を生きていると、つい本当に大切なものを見失いそうになる。だが、『北へ向かう』を聴いてハッとさせられた。限りある命を精一杯生きて、自分の人生を大切にしたい。自分が大切だと思う人を、ちゃんと大切にしたい。それは何にも縛られていない、“心のまま”の素直な感情だ。

 寺尾紗穂の音楽を聴くと、生きているということを強く実感する。

寺尾紗穂『北へ向かう』

■リリース情報
寺尾紗穂『北へ向かう』
発売日:3月4日(水)
レーベル:Pヴァイン
商品番号:PCD-27044
価格:¥2,700+税

<CD収録内容>
1. 夕刻
2. 北へ向かう
3. 一羽が二羽に
4. やくらい行き
5. 安里屋ユンタ
6. 君は私の友達
7. 選択
8. そらとうみ
9. 記憶
10. 心のままに
11. 夕まぐれ - エレクトリックギターバージョン

参加ミュージシャン
あだち麗三郎(ドラム、パーカッション)、伊賀航(ベース)、池田若菜(フルート)、歌島昌智(民族楽器)、キセル(編曲、ギター、ベース、コーラス)、北山ゆうこ(ドラム、コーラス)、ゴンドウトモヒコ(ユーフォニアム、フリューゲルホルン)、千葉広樹(バイオリン)、蓮沼執太(編曲)、マヒトゥ・ザ・ピーポー(ギター)、U-zhaan(タブラ)

■関連リンク
オフィシャルサイト
Twitter(@sahotera)

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