米津玄師、King Gnu、Official髭男dism……それぞれの楽曲に含まれた“切なさ”とは何なのか 楽曲/メロディ構成を分析

 もう一つ、これもかねてよりJ-POPの黄金率として語られていることですが、あらためて日本のチャートトッパーたちというのは、トニックからドミナントへの動きにおけるマイナーコード/特定のノートの類例的使用(あえて単純化して言っていますが)を本当に繰り返し愛用してきたのだなということが再確認されるのでした。これは、いわゆるポップスの定形としての循環コード進行から連なる方法論的磁場が(マーケティング的な要請もはらみながら)非常に強固なパラダイムを(ときに無自覚に)形作っている証左でもあると思いますが、3組の楽曲を、そうしたパラダイムをアレンジ面のアイデアを導入しつつ(ときに循環コード的手法をも大胆に超えて)磨き上げた発展変奏版にして決定版として捉えることも難しくはないでしょう。昨今の海外(欧米)のチャートトッパーたちと比較してもらえれば瞭然かと思いますが、ジャンル問わず、これほどまでにいわゆる「楽曲然」とした楽曲が多数を占めているのがJ-POPの特徴かと思いますし、また何をもってその楽曲が「いかにも楽曲っぽい」か決める要素として、先述のような楽曲全体を通した明確な展開付けと並んで、往還的な構造ならびに往還的なメロディ(だからといっていわゆる「ミニマル」というわけではなく、もっと主情的で自己完結的なストーリー性を内包したもの)があることは明らかでしょう(このあたりをつかまえて、J-POPメロディのガラパゴス的性質を論じるのがこの間流行しているのはご存知の通りです)。

 こうして見ていくと、いわゆる「J-POP」というものは、様々な音楽の中でもひときわ目立った形で情動的なストーリー構築をその主眼に置いている様態と見倣すことができるでしょう。またそうした傾向は、現在J-POPの最前線を走っているとされる米津玄師、King Gnu、Official髭男dismにもっとも鮮やかな形で顕現しているとみるべきなのかもしれません。さらに言えば、ここにいう情動的なストーリー構築とはそのまま、一般的な用語としての「切なさ」と言い換えることも可能かもれません。

 サビを感情の表出のピークとして構成するのは、ある種の俗化されたロマン派的鑑賞法が作法へ逆反射しているというべきものですし、音程の極端な起伏や矢継ぎ早な譜割からは、上述のような焦燥とともに、ある一定の心的状況への固着(=ムード)から逃れるように痺れを切らしながら常に心移りしていくという青春期的(?)エモーションの表出と呼応するもののようにも思います。また、それを包摂する往還的語法が、感情の反芻と強化を補完し、「切ない(エモい)ストーリー」を完成させる……。

 ところで、最新の音楽美学の研究分野においては、「ある曲(この問いでは、純粋にメロディにフォーカスし、歌詞の持つ意味性については除くものとします)を聴くと切なくなるのは、その曲が切ないという性質を内在的に持っているからだ」という従来あった素朴な常識が突き崩されつつあるといいます。

 たしかに、まずもって文化論的次元からも、むしろその「切なさ」は、過去折々で繰り返されてきた聴取/受容/理解が育んだ文化的反応(=こういうメロディには悲しいと歌詞が伴いがちだ/こういうメロディの曲は切なさをさそう場面でよく使われている)が、反射的に楽曲の持つ性質として蓄積され投影されているに過ぎないとすることが可能でしょうし、音楽美学的側面においては、「ペルソナ説」=「切ない曲とは、聴取者たる自分とは別の、切なさを抱く架空の存在を想起させる曲であるとする説」や、「類似説」=「切ない曲とは、強い情動を感じているときにある主体が振る舞う特徴(例:過度に情緒的になり矢継早なテンポで話をするとか、身振り手振りを繰り替えるとか)とその曲の構造が類似している曲であるとする説」という、非実在論的解釈がヘゲモニーを握りつつあるようです(たしかに、翻ってみると、そもそも音符の羅列であるメロディに内在的な美的性質があると考えるのはプラトン主義者でも無い限りもはや妥当性があるとは思えないでしょう)。

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