小沢健二の「個」は普遍に至るか? imdkmの『So kakkoii 宇宙』評

 しかし気になるのは歌詞の距離感だ。アルバムを再生するといきなり〈そして時は2020/全力疾走してきたよね〉とこちらに向かって距離を詰めてくる。〈よね〉と言われても。この〈よね〉が通じる人以外に言葉を伝えようなんてつもりはなさそうだ。

 本作におけるオザケンは、徹頭徹尾見る側であり語りかける側だ(ちょうどこんなレビュー記事も出たところで、非常に面白く読んだ/参考:文春オンライン)。耳を傾ける側ではぜんぜんなさそうに思える。見たものにたかぶって〈見せつけてよ〉と願望をおしつけ(「薫る(労働と学業)」)、〈君に言わずにはいられない〉(「高い塔」)と語りだす。

「薫る(労働と学業)」
「高い塔」

 そこに「言葉が届かない」「耳を貸されない」かもしれないという躊躇がなさそうな様子は奇妙なほどだ。「伝わらないかもしれない」という不安を払いのけるかわりに出てきたのがアルバム冒頭の〈よね〉だったのかもしれない。「だよね~」と言って「そうそう」と言ってくれる人にだけ語りかければ、もとよりコミュニケーションの不安など前提にしなくともよい。〈誤解はするもの されるもの〉(「失敗がいっぱい」)という達観も陳腐に思えてくる。

 また、本作に出てくる「僕」と「君」は対等な二者ではない。「まなざす-まなざされる」であれ「語りかける-語りかけられる」であれ、うっすらと親子関係や家族関係のような権力構造が重ねられている。そこがいちばんの問題だ。相対化することがもっとも難しい権力の不均衡を背後に隠しながら〈見せつけてよ〉とまなざしを行使し、〈言わずにはいられない〉と言葉を押し付ける。

 ならば、並行宇宙のモチーフを援用しつつ決断することに対する逡巡をにじませる「流動体について」や、〈友愛の修辞法は難しい〉と漏らす「シナモン(都市と魔法)」のほうがまだいい。実際には、〈友愛の修辞法〉の困難さを迂回して、むしろ友敵のラインをほのかに引く〈よね〉の力に落ち着いてしまったのだけれど。

 『So kakkoii 宇宙』は良かれ悪しかれオザケンの「個」を反映したアルバムだ。構成の面でも言葉の面でも。その限りでおもしろい。しかし「個」が普遍に至るような音楽的・詩的なマジックはないし、むしろ自らそうした普遍に背を向けているようなフシさえ感じられる。このアルバムが「宇宙」の単語を冠しているのは皮肉としか思えない。

小沢健二『So kakkoii 宇宙』

■imdkm
ブロガー。1989年生まれ。山形の片隅で音楽について調べたり考えたりするのを趣味とする。
ブログ「ただの風邪。」

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