AKB48、坂道グループ……今、世の中が求めるアイドルグループのあり方を改めて考える

 2010年代の終盤に至って、女性アイドルシーンは「坂道シリーズ」を軸にして特集され、語られることが多くなった。女性アイドルグループの代表的な特徴のひとつになってきた「競争」的なアングルに順応するのではなく距離をとり、いくぶん相対化するようなこれらのグループが大きな支持を集めているのだとすれば、そこには世の中がアイドルグループに何を求めているかについての、パラダイムの変化をみてとることもできるかもしれない。

乃木坂46『今が思い出になるまで』(通常盤)

 他方、視点を変えれば、現在までAKB48の大きな武器としてある「現場」やSNSは、坂道シリーズの各グループが48グループほど駆使できていない要素でもあった。とりわけ2010年代前半にAKB48の熱狂のありかとして論じられてきたのは「現場」がもたらす一回性や共時性の感動や面白みだったが、同時期、乃木坂46は頻繁にライブを行える場をもたず「現場」の少ないことがウィークポイントとしてたびたび語られた。また、48グループに比べて坂道シリーズはメンバー個々人のSNS等のアカウントが限られ制御されているため、個々人の自己表現の模索という点でいえば、48グループと同型の自由度を持ち得ているわけではない。

 対して、坂道シリーズが自らの強みとしてきたものに、膨大な映像作品や独特のビジュアルデザインの追求など、アートワークにおける蓄積がある。それらのクリエイティブはメンバーを演技者として育成するための土壌にもなり、またアートワーク単体でしばしばメディアからの注目を集めるなど、坂道シリーズというブランドがマスに訴える強みもになった。あるいは、乃木坂46が継続的に保ってきた演劇への志向は、欅坂46の楽曲パフォーマンスにも虚構の群像表現として昇華され、アイドルシーンの外にまで届く新鮮な驚きを生んだ。「現場」が生成するドラマとは異なる、いわば「作品」の水準でのインパクトが坂道シリーズのストロングポイントになった。

 もっとも、「競争」的なアングルへのスタンスやビジュアルデザイン等の志向において、現在坂道シリーズが世の中と共振しているのだとしても、これを単純に48グループ対坂道シリーズといった固有名詞同士の盛衰や優劣という観点に落とし込んで終わりにすべきではない。あるグループのどのような性質が社会に広く受け入れられているのか/いないのかを見極めることは、社会一般の感覚との乖離をしばしば引き起こしがちなアイドルというジャンルのあり方を点検する、重要な機会となる。

 NGT48の事件は、グループアイドルを運営する組織がもつ深刻な問題点を問う最新の、また決定的な契機となった(はずだし、そうせねばならない)。他方で、アイドルというジャンルが慢性的に問題を抱えているとしても、このジャンルの枠組み内でメンバーたちが模索してきた自己表現の発露やその成果、可能性までも等閑視されるべきではない。それぞれのグループが作ってきたクリエイティブも、メンバー個々人が開拓してきた文化実践も、その意義は正しく評価されねばならないし、そのことと運営組織やジャンル全般に対する批判とは無論両立する。基本的にマスに開かれた存在であるアイドルグループの何が受容され、何が受容され難いのか。それを見つめることは、単なる栄枯盛衰だけでなく、アイドルというジャンルをいかに社会に位置づけ直すかを捉えるための、必須のプロセスになるはずだ。

■香月孝史(Twitter
ライター。『宝塚イズム』などで執筆。著書に『「アイドル」の読み方: 混乱する「語り」を問う』(青弓社ライブラリー)がある。

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