沢田研二と書いてロックンロールと読むーー80年代から現在に至るまでの活動を辿る

 しかし、そんな賑やかな「1980年代の沢田研二」より、ある意味重要だと考えるのが、この10年=「60代の沢田研二」だ。

 「60代の沢田研二」の幕開けは鮮烈だった。2008年11月29日に京セラドーム大阪、12月3日に東京ドームで行われたドームコンサート=『人間60年・ジュリー祭り』。夕方から夜まで、自身の曲を何と80曲も歌い切る壮絶なものだった。

 また、ザ・タイガースの再結成も、「60代の沢田研二」の大きなトピックである。60年代後半のグループサウンズ(GS)ムーブメントのトップを走ったバンド=ザ・タイガース。そのボーカルが沢田研二(ジュリー)。

 タイガースの再結成は、沢田研二の悲願だった。かつてのタイガース時代を偲ぶような歌詞を持つ「いくつかの場面」(1975年)という曲の途中、沢田研二は、スタジオ録音にもかかわらず泣いているのだから。

 その再結成コンサートもなかなかに凄まじいものだった。解散から40数年後の再結成なのに、サポートメンバーがいないのだ。東京ドームに鳴り響く、60代のジジイ(失礼)5人だけによる、ピュアに枯れたロックンロール。

 正直、100点満点の演奏とは言えなかったものの、大物ベテラン音楽家の復活コンサートにありがちな、何十人ものサポートを付けた、護送船団方式の演奏よりも、何十倍も心に沁みる感じがしたものだ。

 「60代の沢田研二」を語る上で、避けて通れないのがメッセージソングの存在である。『人間60年・ジュリー祭り』でも歌われた、憲法9条をテーマにした「我が窮状」に加え、東日本大震災後は、脱原発への思いを込めた曲を多数発表している。それどころか、2016年から17年のツアー『祈り歌 Love Song特集』のセットリストは、メッセージソングがそのほとんどを占めた。

 しかし、このあたりについての本人の弁は、いたって自然で、それでいて生真面目な、実に沢田研二らしいものである――「9条も含めて、売れている頃は、そういうことは考えないようにしていました。考えて何かしようとしても、きっと周囲が止めると分かっていたから。でも、こんな年齢になったから、ちゃんと言っていかないと恥ずかしいよね。集会やデモの先頭に立って、ではないけど。だって自分に無理のない方法でやらないとしんどいでしょう」(毎日新聞2012年3月8日)

 「メッセージソングを歌わなければロックンロールじゃない」とまでは言わないが、判で押したように、メッセージソングに尻込みする若い音楽家より、何にも忖度せず歌いたいことを歌う「60代の沢田研二」の方が威風堂々と見えるのも確かだろう。

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