菅田将暉の音楽活動に感じる時代の空気 “偽りの自分/本当の自分”を無効化する存在に?

「アイドル」「アーティスト」論への現代的な回答

<愛する人のために生きる そんなことは 僕はもうやめた>

 『PLAY』にも収録されており、菅田将暉が初めて作詞に参加した「呼吸」の冒頭にはこんな歌詞がある。人気俳優が歌手活動でこのフレーズを歌うということから、「素の自分を見てください」とでもいうようなメッセージを読み取ることもできると思う。

 ここで展開される「偽りの自分」と「本当の自分」とでも言うべき分類、および「人気者」が前者への違和感と後者への憧れを発露させるという構図は日本の音楽業界において様々な場所で登場してきたものである。

 歴史をさかのぼれば、人気絶頂だったころの美空ひばりは「美空ひばり」と「加藤和枝」(彼女の本名である)のギャップに苦しんでいた。浅草の国際劇場でファンの女性から塩酸をかけられた事件についてこんなふうに回想している。

「きらびやかな舞台の衣装をぬいだとき、私は加藤和枝という平凡な娘でした。私に塩酸をかけた人と同じ十九歳の悩みが、スター美空ひばりの魂の内側にはありました」(竹中労『美空ひばり』内の本人の独白)

 また、近年では松浦亜弥が2010年11月の週刊プレイボーイの誌上において「あやや」という人格を「あの人」と言い放ち、「松浦亜弥100%じゃ絶対できなかった」「だんだん『嘘笑い』が得意になってて。車が来たらよけるみたいに、カメラが来たら反射神経で勝手に口角が上がるんですよ。それがちょっと怖くなりました、自分で」とその当時における自分本来の姿とのギャップを語っている(ちなみに彼女は2002年、美空ひばりが遺した言葉につんくが曲をつけた「草原の人」をリリースしている)。

 それでは、菅田将暉の音楽活動も、こういった「偽りの自分」と「本当の自分」というフレームで考えるべきものなのだろうか? 役を演じる俳優から自分の心情を吐露する歌手へという大きな流れがあり、『PLAY』はその第一歩、ということになるのだろうか?

 これまでの芸能史に照らし合わせればそういった捉え方はとてもわかりやすいし、実際にそういう側面もないわけではないだろう(「何かの出来事に対してどう思うかみたいな人間性って、役者をやってて出すことはないんですよ」/『ROCKIN'ON JAPAN』4月号別冊 「菅田将暉 超ロングインタヴュー『声』の行方、そのすべて」より)。ただ、彼の音楽活動から垣間見えるのは、「抑圧された自我を表現するためには音楽が必要だった」というようなものとは異なるストーリーのように思える。

「音楽を始めた時ほど差別化はしていません。芝居では決められた役がありますし、音楽はよりパーソナルな私情が出てくるけれど、どちらも『物語』を演じるという意味では同じ」
Numero TOKYO「菅田将暉インタビュー『裸一貫なミュージシャンに憧れる』」

「最初は音楽活動は音楽活動、俳優業は俳優業って別々のものだと思っていたんです。だけど最近は「どうやらそうでもないぞ」と思うようになって。それはこのアルバムを完成させて思ったことでもありますね。結局、俳優業でどんなことをやろうとも、音楽の中でどんなことをしようとも、両方自分の人生」

「極論を言えば、菅田将暉はアルバムを出さなくてもいいんですよ。今までの僕の活動の流れからして、音楽活動は必要ないのかなって。だけど明確な意味がなくても、アルバム制作を通してこんなに素敵な出会いがあったし、自分自身がこれだけ高揚できた。自分の気持ちって、100%人に伝えるのは難しかったり、そもそも伝えるものでもなかったりするじゃないですか。そういうものを参加アーティストたちと共有できたことは自分にとって貴重な経験でした」
音楽ナタリー『菅田将暉 デビューアルバム「PLAY」特集

 こういった発言から筆者が感じるのは、「客観的に自分の立ち位置を把握しつつ」「周りからどう見えるかということも考慮しながら」「自分が本当にやりたいことを楽しくやる」「そしてその範疇にたまたま音楽というものがあった」というような肩の力の抜けた軽やかさであり、「偽りの自分(=俳優で役を演じる)」「本当の自分(=音楽で自我を表現する)」といった古典的な線引きをにこやかに、かつ鮮やかに無効化するかのような力強さである。

 ここ数年の女性アイドルグループのブームを経て話題になる回数が増えた「アイドルかアーティストか」という議論は、基本的にはこの「偽りの自分」「本当の自分」という区分けを前提として、その演者の表現がどちら側に類するものか、という構造で話が進んできたと言っていいだろう。誰もが普段からSNSで発信し、「偽りの自分」と「本当の自分」というものの違いがあやふやになっている今の時代においてすら、この不毛な構図は各所で繰り返されている。

 そんな状況において、「アイドル」とはまた少し位置づけが違うが、音楽が本業というわけではない人気俳優が「本当の自分の吐露」といったストーリーに偏らずに「単にやりたい、楽しいこと」として作品をリリースしたこと、そしてそれが複数の才能あるミュージシャンとのコラボによって形作られている(=すべて自作自演というわけではない)というのは注目に値することである。偽りも本当もない、そこにはただ「自分」がいるだけ、とでもいうような潔さが菅田将暉のスタンスには貫かれている。

 自作自演信仰、「本当の自分」と「偽りの自分」、アイドルかアーティストかーーそんな凝り固まったテーゼを、この先の活動を通じて時代遅れのものに追いやってほしい。菅田将暉という人気俳優の音楽活動が、そんなパラダイムシフトを起こすことを大いに期待している。

■レジー
1981年生まれ。一般企業に勤める傍ら、2012年7月に音楽ブログ「レジーのブログ」を開設。アーティスト/作品単体の批評にとどまらない「日本におけるポップミュージックの受容構造」を俯瞰した考察が音楽ファンのみならず音楽ライター・ミュージシャンの間で話題になり、2013年春から外部媒体への寄稿を開始。2017年12月に初の単著『夏フェス革命 -音楽が変わる、社会が変わる-』を上梓。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「アーティスト分析」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる