ECDは思想家としてのラッパーだった 荏開津広による追悼文

 ECDは、“才能もない、ダメだ、どうしよう”とがっかりした人のために、自分はそんな人々の内から現れマイクを握ったという(前述の「Check Your Mic」、1992年)。まるで1人だけの芸術運動の宣言だ。事実、トレイシー・エミンなども関連していた1990年代末のUKの美術運動“スタッキズム”(※註2)の宣言の幾つか、例えば“スタッキストはキャリアある芸術家ではなくむしろアマチュアである”を想起させる。彼は後からの世代のアーティストたちに手を差しのべる。スチャダラパーのデモを見い出し、Lamp Eyeに、後に伝説的な曲となった「証言」のリリースのための決して少なくない資金を工面したエピソードは有名だ。

 こうしたECDの音楽は、バブル経済の匂いが残る、彼の活動初期の1990年代の東京より、2010年代の世界と繋がっていただろう。結果としてECDは多くの人々の共感を得た。20枚前後のアルバムを含む、トータルで40以上の作品をリリースしたラッパーは世界的にもほぼいない。ほぼ触れなかったが、執筆家としては、単著だけでも10冊以上にのぼる。2017年、彼の生き様を配信したオンラインプログラム・DOMMUNEのビューワーは200,000人を超えた。

 そして、2000年代も後半には、彼のユートピア願望が音楽の領域で充足している分には怠惰だとばかり、特に震災以降の路上での政治運動に、ECDは文字通り飛び込んでいった。

 路上での政治的な活動から彼を過激な左翼と判断し毀誉褒貶する人々は決して少なくないのだろうか(そのようにオンラインで見える)。しかし、ナショナリストというのは正確ではないが、例えば、ECDは日本という国と、そこに住む人々のアートの領域でのある種の優越性を信じていたと僕は思う。かなり早い時期から、彼が後に“和モノ”と呼ばれる、国産ポップミュージックの熱心なコレクターであったのみならず、一時期の彼のアルバムは“和モノ”のみが使われてプロデュースされていたことを思い出してほしい。

 ECDさんは、アーティストとして再び旺盛な創造期を迎えるところでした。ほんとうに残念です。御悔やみ申し上げます。

■荏開津広

執筆/DJ/京都精華大学、立教大学非常勤講師。ポンピドゥー・センター発の映像祭オールピスト京都プログラム・ディレクター。90年代初頭より東京の黎明期のクラブ、P.PICASSO、ZOO、MIX、YELLOW、INKSTICKなどでレジデントDJを、以後主にストリート・カルチャーの領域において国内外で活動。共訳書に『サウンド・アート』(フィルムアート社、2010年)。

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※註1:http://www.webdice.jp/dice/detail/1567/
※註2:http://www.stuckism.com/stuckistmanifesto.html

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