AKB48はメンバーの人生に何をもたらしたか? ドキュメンタリー最新作が描く“経験と糧”

AKBがメンバーの人生にもたらしたもの

20160723-akb5.jpg
(C)2016「DOCUMENTARY of AKB48」製作委員会

 それは、内側の物語だけにとどまらず、アイドルシーンの中心としてのAKB48、あるいは社会的な存在としてのAKB48がどのようなものなのかということとも繋がっている。「外側」からの視野を求めて石原は、他の人気アイドルグループの運営を訪ねてゆく。そこで外部からの感慨として述べられるのは、他のグループとは大きく規模感の異なる、AKB48グループの多人数編成についての指摘である。端的に言って多すぎるそのメンバー数を考えれば、全ての成員に芸能者としての安定した立場をもたらすことなどできようはずはない。だからこそ、AKB48の歴史を彩った人々をカメラに収めようとするとき、芸能とは別の人生を歩んで久しい人々を捉えることも必然になる。だとしても、AKB48がそうした人々にわずかでも人生の糧を用意することはできないだろうか。

 本作でその糧の象徴になるのが、2016年の選抜総選挙である。選抜総選挙とは、単純に上位に入るかどうかという価値観だけではなく、この巨大な人数のうち一人でも多くのメンバーたちのストーリーを可視化して、注目させるための機会をもたらすイベントとしてある。しかし、より細かくいえば選抜総選挙のそうした利点は一方で、ドライな「序列」によって成員が位置付けられ、その序列のプロセスそのものが受け手を巻き込んで興行化されるという、それこそAKB48を社会的な存在として見た時にしばしば議論の対象になる冷淡な側面と背中合わせである。先述のような視野を持ちながらAKB48を見続けてきた石原が、その功罪の「罪」に自覚的でないはずがない。

20160723-akb6.jpg
(C)2016「DOCUMENTARY of AKB48」製作委員会

 それでも、石原はあえて選抜総選挙を、各メンバーの人生にとっての糧として捉えることを選んでいる。すなわち、過去のAKB48ドキュメンタリー作品群の中で本作はもっとも、開票イベントに臨むメンバーたちの姿から悲壮感を映し出そうとしていない。同じ日に同じ場所で起きた出来事を、もっと修羅場や惨劇として切り取ることも、あるいはことさらに栄光ないしは挫折の物語として切り取ることもできたに違いない。高橋栄樹が手がけた過去のAKB48ドキュメンタリーのように、総選挙やスキャンダルをめぐる諸々に対して静かかつ強烈な批評性を宿すこともできたに違いない。石原が選んだのはおそらく、それらとは違うやり方である。というより、本作に関しては2016年の選抜総選挙というイベントに、ことさらに短期的で内輪なドラマを求めようとはしていない。やがてAKB48を背負うかもしれない、もしくは48グループから遠く離れた道を歩むかもしれない人々が、人生のある過程でAKB48を経験している。あくまでその象徴として、本作における選抜総選挙での各メンバーの姿はある。俯瞰しつつ各人の人生の尊さを見出そうとするその描き方は、内輪のみに収斂しない石原の視野のあらわれであり、また修羅場や組織のネガティブ面などをいくつも目の当たりにしているであろう石原の祈りのようでもある。

 高橋栄樹によるAKB48ドキュメンタリーが、回を重ねるにつれて自然と内側のストーリーに肉薄していったのに対し、石原は内側の立場に寄り添いつつも、AKB48の「外」へと繋がった世界を意識するような俯瞰を試みた。選抜総選挙で1位を獲得したメンバーが明らかになった瞬間を捉えたシーンで石原が選択したのは、物理的な距離としては会場のすぐ近くにいながらも、現在はAKB48グループに在籍していない人物を映したショットだった。総選挙で1位を獲得したメンバーと、かつてそのメンバーと同期でAKB48に加入した人物とが重ね合わされるこのシーンに、人生のある地点でAKB48を経験してゆくことの持ついくつもの意味が集約されている。その後味こそ、指原莉乃によるHKT48のドキュメンタリーを除けば、48系のドキュメンタリー史上最も監督の記名性が高い同作品の、最大の特徴なのだろう。

(写真提供=(C)2016「DOCUMENTARY of AKB48」製作委員会)

■香月孝史(Twitter
ライター。『宝塚イズム』などで執筆。著書に『「アイドル」の読み方: 混乱する「語り」を問う』(青弓社ライブラリー)がある。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「アーティスト分析」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる