清竜人25が示す、アイドルの演劇的特性 「虚構」の臨界点を探るグループのスタンスを読む

 とはいえ一方で、今日のアイドルシーンはメディア環境も手伝って、アイドル当人の“生身”にアクセスし、アイドル自身のパーソナリティが楽しまれることが重要な特徴でもある。フィクションの劇内世界でその楽しさが完結されるような清竜人25のパフォーマンスは、そうしたアイドルシーンのスタンダードからは外れるようにも見える。けれども、他の多くのアイドルと同じく清竜人25の「夫人」たちも個別のSNSアカウントを持ち、そこではこのグループの「設定」から降りた時間のパーソナリティを垣間見せている。そうしたパーソナリティからフィードバックされる夫人たちの個性は、ごく自然にステージ上にいる時間の彼女たちにも重ね合わされている。そもそも「一夫多妻」が明らかな嘘なのであれば、「夫人」たちにナマのパーソナリティを求めることも、いわゆる疑似恋愛的な視線を送ることもいくらでも可能だし、その意味では「アイドルのタブー」(というものがあるとして)を破ったり異端的だったりするわけではない。彼女たちに“生身”を求めることなど、本当はいくらでもできてしまう。それでも、このグループにとって重要なのは、生身そのものではなく、その生身のアイドルたちがつくり上げる演劇的な世界の方だ。あからさまなファンタジーの設定を大前提にし、虚構の世界を虚構の世界として楽しむという機能こそを縁取って強調することに成功したのが清竜人25である。

 同時に、上記したように楽曲とダンスによる虚構内の世界と、それを上演する生身のパーソナリティとが二重写しに受け止められるという、アイドルシーンの基本的な性質は清竜人25にとっても変わることはない。今年5月、第5夫人の清菜月の「妊娠」によるアイドル活動の休止と発表された際、それに対する受け手のリアクションはそれまでファンタジーとして楽しまれてきたような気楽なものとは感触がいささか違った。仮にこれが体裁として完全に舞台演劇であるならば、その「妊娠」まで含めて同一の虚構の水準で安心して受け止められただろう。けれども、妊娠や育児といった生身の人間のライフコースにとって重大かつデリケートな事柄が「設定」として持ち込まれたとき、そこには倫理を問うような緊張感が生じたように思う。それはアイドルというジャンル特有の虚構と生身との関係を浮き彫りにするような事柄に見えたし、また清竜人25がこのジャンルの演劇的な楽しみ方を強調する形で提示してきたからこそ起こりえた事態だった。

 もちろん、このグループが屈託なく持ってしまった批評性と、その批評性について語ろうとする端から野暮になってしまうような憎らしいまでの魅力は、清竜人25のすぐれてユニークな特性だ。しかし、清竜人25はアイドルというジャンルが持っているフィクションとしての楽しみ方を存分に活用し、またその結果アイドルというジャンルにとっての「虚構」がどこまで可能なのか、その臨界点を探るようなグループになっている。清竜人25は異端なのではなく、アイドルというエンターテインメントの演劇的特性を非常にストレートに提示し考えさせる、今日的な存在である。

■香月孝史(Twitter
ライター。『宝塚イズム』などで執筆。著書に『「アイドル」の読み方: 混乱する「語り」を問う』(青弓社ライブラリー)がある。

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