アイドルは今「完全なプライベート」を持てるか? SNS以降のパーソナリティを考察

 より具体的にいえばそれは、アイドル個々がブログ、Twitterなどのアカウントを通じ、あるいはモバイルメール配信を通じて「個」の言葉を絶えず発信している風景である。この環境は、たとえばテレビ内での表/裏といったレベルではなく、そもそもアイドル当人の生活時間におけるオン/オフを曖昧にしていく。アイドルがSNSに投稿するとき、ブログやモバイルメールの文章を作成するとき、それはその瞬間に当人のいる場所が仮に自宅であれ、完全な「オフ」にはなり得ない。仕事時間なのかプライベートなのかが判然としない時間が、アイドルの「オフ」には貼りついている。もちろん、芸能という職業である性格上、どこまでを労働時間と規定するかはそもそも難しいにせよ、個人の日々のスケジュールとは関係なく、SNSによる絶えざるアウトプットは当たり前に要請され、ファンもごく当たり前に日々の更新を期待する、そうした慣習がアイドルシーンにはできあがっている。アイドルの生活時間の中で、オンとオフとは侵食しあう。

 このような環境でなされるアウトプットは、アイドル個々人のパーソナリティが日常的に発される状況をもたらす。パーソナリティが絶えず発されるなかで、その発信内容は仕事に対する自身のスタンスや自意識の吐露といったものに傾斜していく。そして、それは必然的にアイドルというジャンルを、主体的に自己を発信していくためのフィールドにしてきた。先の北原のドキュメンタリー内で、北原が他メンバーから「私だけが生き残りたいというタイプではない」「競争心が全然ない」と評され、それが「致命的な特徴」と語られるのは、このジャンルが、与えられた枠組みの中で立ち回り己をプロデュースしながら提示していく場であることを示している。言うまでもないことだが、この状況下ではもはやアイドルについて「やらされている」「受動的」という前提のみで何かを論じる振る舞いは失効しているし、北原のドキュメンタリーがNGT48移籍決断に至る「生き方」に照準を絞って構成されるのも、AKB48内での彼女の立ち回り方こそがコンテンツとなるからだ。アイドルのパーソナリティが受け手の享受対象となること、それはかつてないほど多人数がアイドルというジャンルに属している今日、ひとりでも多くがその先のキャリアを探り当てるために、必然的に生まれた状況でもあるのだろう。

 ただし、ドキュメンタリー性に価値が置かれ、またこのようにパーソナリティが強調されることは、決して「表」の領域がもつ「約束ごと」の重要さを弱めることとイコールではない。たとえば大会場でのソロコンサートも成功させている同じAKB48の柏木由紀のパフォーマンスおよび振る舞いをみるとき、彼女はともすればクラシカルな「アイドル」イメージへの憧れを語りつつ、それが前時代的な虚構イメージであることを自覚しながらも、そのイメージをステージで上演しようとしている。そのパフォーマンスにとって、彼女が語る自身の志向はある説得力をもたらすものにもなっている。そのように考えると、虚構の上演と、その背景としてのパーソナリティの発露とは、相反する表裏というよりも、相乗効果をあげつつ絡み合う二側面であるようだ。受け手はステージ上に、アイドルによる虚構イメージの上演と、それを演じるアイドル自身のパーソナリティとを二重に映して見ることになるのだ。

 こうしたジャンルの実践者であるアイドルが、さらに水準の違う明らかな「虚」、すなわち演劇を行なうとき、それはいったい何を上演しているということなのか? 次回はアイドル演劇というものについて考えてみたい。

■香月孝史(Twitter
ライター。『宝塚イズム』などで執筆。著書に『「アイドル」の読み方: 混乱する「語り」を問う』(青弓社ライブラリー)がある。

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