乃木坂46のドキュメンタリーが描く「アイドルであること」の意味 AKB48版との比較を通して読み解く

 しかし、何より『悲しみの忘れ方』が寒竹版を含めたこれまでの48グループの作品群と異なる興味深い点は、メンバーたちの「乃木坂46以前」の視点に、その足場を見出していることである。『悲しみの忘れ方』冒頭の30分ほどでメンバーたちによって語られるのは、彼女たちが「一般人」だった頃の、どちらかといえば屈折を抱えた日々の記憶だ。そして、乃木坂46メンバーとして一見メジャーな舞台で歳月を経ていく中でも、このドキュメンタリーの足場はたびたび、「一般人」の目線へと引き戻される。それを担うのが、ある特徴的な視点によって終始語られるナレーションである。その「ある視点」が常に寄り添っているからこそ、そもそも「一般人」だったはずの彼女たちがなぜこのようなかたちで他者と比べられなければならないのか、なぜ見知らぬ人々に叩かれねばならないのか、という問いも素朴かつ切実なものとして投げかけられる。それは、「アイドルの疲弊」に慣れすぎた受け手に、自分が楽しんでいるこのジャンルの一側面を静かに省みさせるものでもある。

 もちろん、現象だけみれば彼女たちはAKB48の「公式ライバル」として多くの人の前に立ち続け、アイドルというジャンルが抱え込む慣習に飲み込まれながら、プロとしての日々を送っている。けれども、「ある視点」が繰り返し顔を出すことで、ここで観察されているのはまだ「一般人」としての側面を残す人々の、アイドル「体験」期間でもあるようにも見えてくる。「一般人」である語り手と、アイドルシーンとの間にある距離感、それがこの作品特有の手触りを生んでいる。

 こうした筆致で描かれることも手伝って、グループの活動の中で足場を固めていく彼女たちの言動は、アイドルグループに順応していくというより、たまたま与えられたアイドルという機会をその後の人生にどう反映させていくのかの模索という感が強い。もっとも、その模索はきわめて健全だし自然なことだ。それは48グループの他のアイドルたちも同様に抱えるテーマであるし、またもちろん、先を見据えることと、いま現在のアイドルとしての活動をまっとうすることとは相容れないものではない。ただ、「一般人」視線をあくまで保ち、本来の彼女たちにとっては異界であったかもしれないものとして現在を捉えることで、アイドルシーンとはまた別次元の、人生の模索という側面がより強くあらわれる。そしてまたこの筆致は、48グループに伴って歩みながらも常に一定の距離を保とうとする、乃木坂46というグループの気風から、自然に導き出されたもののようにも感じられた。

 この作品の主人公たちが「一般人」から飛び立つのは、同伴者であり先輩でもありうる唯一の存在、松井玲奈の言葉を挟んで、2015年の活動にクローズアップしてからのことだ。メンバーたちがそれぞれに活路を見出すことで、プロとしての輪郭をはっきりさせてくる展開は、戸惑いがちな様子に見えていた彼女たちの明らかな成長を謳うものだし、グループ全体の飛躍も感じさせる。ただし最終盤、フィーチャーする対象を、さらに最近まで「一般人」だった人物に移すことで、「ある視点」は再び戻ってくる。つまりこの映画は、グループ内の世代の移り変わりを、プロからプロへの継承ではなく、各世代のビギナー期を映し出すことで表現している。この映画の主人公たちにとって、アイドルシーンは常に、ある意味で異界だ。だからこそ、「アイドルであること」とは何なのか、独特の形で浮かび上がらせるものになっている。

■香月孝史(Twitter
ライター。『宝塚イズム』などで執筆。著書に『「アイドル」の読み方: 混乱する「語り」を問う』(青弓社ライブラリー)がある。

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