乃木坂46が舞台公演『じょしらく』で見せた、“アイドル演劇”の可能性とは?

 さて、日常の一コマをつづるようなシーンを積み重ねて進む舞台版『じょしらく』だが、この芝居は上演時間が進行するにつれて、落語家としての彼女たちの日常の裏に、彼女たちが「アイドル」として日常を過ごすパラレルワールドが潜んでいるような、二つの側面がないまぜになった構造をみせていく。落語家の日常とパラレルに、この世界に存在するアイドルの日常、ある時その二つが接点を持ち、そこからこの舞台は一気に加速していく。

 もっとも、ここで描かれる「落語家の日常」も「アイドルの日常」も、そもそも乃木坂46という「アイドル」によって「演じ」られている。そのことによって、「演じる」という言葉の意味は、現実世界に跳ね返ってくるような広がりをもつことになる。作品最終盤で投げかけられる「みんなは演じていないのか?」というシリアスな問いは、そのまま現実世界でアイドルという職能を背負っている乃木坂46メンバーたち自身が、アイドルとしての日常を「演じ」ながら過ごしているのではないのかという問いに重ね合わされるのだ。

 しかし、この問いを「嘘の姿/真実の姿」といった、単純なネガティブ/ポジティブの対比でとらえるべきではない。この作品で示唆される「演じる」こととは、欺瞞であるよりも、ある世界を「上演」することの誇りのようなものだ。今日のアイドルは周到に編集されたメディア上で完結するものではなく、現場にせよSNSにせよ、便宜上の「舞台」を降りた「日常」までもが「上演」の場にならざるをえない。日常と舞台上とが互いに浸透しあうような環境のなかでは、演じる/演じないを場によって区別することはますます難しくなっているはずだ。舞台版『じょしらく』はアイドルをとりまくそんな状況の苛酷さ理不尽さに水面下で目を配りつつも、アイドルが「上演」されること、アイドルという職能を通じて「上演」できる世界を肯定し、前向きな意義を主張しているようにみえた。

 アイドル演劇というジャンル自体、アイドルである演者の人格と、そのアイドルが演じる物語上の登場人物の人格とが重ね合わされて受容されることで成立するジャンルである。より一般的にいえばそれは「スターシステム」ということにもなるが、ことアイドル演劇の場合、特に演者のパーソナリティに強く視線が注がれる。その性質を綺麗に織り込みつつ、彼女たちが舞台経験を正当に積む場としても成立したのが、今回の乃木坂46版『じょしらく』だった。『16人のプリンシパル』とは違った演劇企画を持つことで、「演劇の乃木坂46」としての武器は確実に増えた。『16人のプリンシパル』と今回の『じょしらく』とは、互いに性格の異なるエンターテインメント性を宿している。この公演のフィードバックを受けて今年以降の『16人のプリンシパル』はどのように舵を取るのか、また次なる演劇企画はどう設定されるのか。『じょしらく』は今年下半期、そして来年以降の乃木坂46の可能性に幅を持たせる歩みだった。

■香月孝史(Twitter
ライター。『宝塚イズム』などで執筆。著書に『「アイドル」の読み方: 混乱する「語り」を問う』(青弓社ライブラリー)がある。

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