宮台真司+小林武史が語る、2010年代の「音楽」と「社会」の行方

小林「“ここではないどこか”っていうスペースが、日本では持ちにくくなっている」

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左、宮台真司。右、小林武史氏。

小林:なかなか返す言葉もないところですね(笑)。とにかく以前は「ここではないどこか」っていうスペースが、僕が若い頃はイメージできたし、その余白のようなものがあった。僕は今、中国のローレルっていう映画製作会社から音楽を作ってくれって言われています。その映画はロードムービーなんですけど、中国のあり方に対してシニカルな態度をとりつつ、中国共産党っていう高い壁と上手に渡り合っていて、相当面白そうな映画なんです。羨ましいのは、彼らはかなり抑圧されているんですけど、カルチャーの部分、モノを作るっていう部分に関してはまだ余白を持っているんですね。さらに、さっき言ってた日本独特の空気読むというか、そういう部分においては日本とだいぶ違っている感じがある。それが一概にどうとは言えないんですけど、とにかく「ここではないどこか」っていうスペースが、日本では持ちにくくなっているのは間違いない。
 たとえば、僕が若い頃は車を自分で運転して、女性と伊豆に行ったりした。自分の好きな音楽をかけながら、軽くぶっ飛びつつ、イメージを馳せながら行ってたんだなっていうのが思い返せるわけ。でも、最近はそういう余白もなくて、音楽も携帯で聴いていて、響きあうことも少ないし、みんな情報として聴くようになっちゃったから、「ここではないどこか」に思いを馳せにくい。音楽に関して言うと、僕は響きというものをすごく大切にしていて、「代々木VILLAGE」っていう僕がやっているミュージック・バーでも、音がどう響くかをものすごく考えて作ったんですね。音の響きっていうのは点から点に、鼓膜にダイレクトに来るのが良いわけじゃなくて、色んなところに反射しながら伝わって響き合うことが大切なんです。でも、情報だけになると、響きと関係なくなっちゃうんですよ。

宮台:なるほど。伊豆の話と関係しますが、60年代の表現者たちは〈体験のプロデュース〉を意識していました。曲でメッセージを伝えることを越え、感覚の拡張によって未知の体験を与えようとしていました。
 僕ら世代はその影響を受けているので、デートのときも、どのルートでどの時間帯にどの音楽をかけるかを気にして〈体験のプロデュース〉を企てました。そのデートのためだけに特製カセットテープを作ったりして(笑)。
 
小林:でも、グローバリゼーションが進む中でどんどん社会が複雑化していって、変性意識状態を含む、身体が震えるというような身体性なども失われていった。たぶんもっと社会がシンプルな時っていうのは、スピリチュアルな部分も含めて、自然と呼応するような感性がずっと研ぎ澄まされていたのではないかと思うんですね。僕は「ap bank」っていう、自然エネルギーや環境にまつわる非営利組織をやっていて、千葉の木更津っていうところに東京ドーム10個分くらいの広い農場を始めたんです。で、農場に太陽光を導入することができて、だんだんと農場の運転費も自分たちで賄うことができるようになりました。そうすると循環というか、個々のレベルを越えて細胞レベルでも関わりを持って繋がり合っているような感覚を得るんです。変性意識状態にも近い感覚で、自然というか、もっといえば宇宙のエネルギーの大きさみたいなものを感じる。だから今、人間が袋小路にハマっている経済や環境の問題を、個人レベルから変えていくには、どういう理屈をつけても自然の中に連れて行くべきだと思う。
 この本に書いてあるように、社会が複雑化して、グローバリズムの中でお金の流動化っていうのが起こると、親が子どもに対して、どういう風に生きれば安心なのかということも教えられなくなってしまう。そうすると、子どもは親や学校が言っていることが信じられなくなって、いわゆる共同体っていうものも崩壊していく。そして、極論を言う人にみんながなびきやすくなり、そこで承認を得たがるっていう傾向が増えていく。危なっかしい社会ですよね。

宮台:それがチャンスだとも思います。僕は沈みかけた船の中で座席取りをしてどうなるんだと昔から言ってきましたが、グローバル化によって実際船が沈みかけていることがやっと目に見えるようになってきました。
 金を稼いだって、疑心暗鬼の中で損得勘定に耽る人は、結婚しても失敗し、まともな友達もおらず、一人寂しく死ぬのは必定です。それが恐いから疑心暗鬼の中で投資やら貯蓄やらと、死ぬまで損得勘定を続けます。
 日本のスーパーフラット化は96年頃からで、低体温状態になって15年です。低体温とは変性意識から見放された状態のこと。人々が損得勘定の〈自発性〉から、湧き上がる力の〈内発性〉にシフトできない〈クソ社会〉です。
 変性意識状態/損得超えて湧き上がる〈内発性〉/人を守りたいと思う絆/光と闇が綾をなす社会。これに対し、通常意識状態/損得に閉じ込められた〈自発性〉/いざというとき守られたがる絆/スーパーフラットな社会。
 沈みかけた船が心地よいならイザ知らず、この程度の終わりなき日常が支配する〈クソ社会〉。だから、現在を未来の道具にするんじゃなく、今を楽しむ。それが「意味から強度へ」というスローガンで言いたかったこと。
 それが、ここに来てやっと船が沈むことが確実になってきました。原発問題でいえば、今後20年で14機廃炉になるけど、処理に30兆円かかります。とてもじゃないけど日本社会では賄えません。
 財務省出身の研究者が言うように、年2%ずつ消費税を上げて2020年までに20%にし、最終的には35%にすれば、財政破綻を回避できます。でも、独裁制ならぬ民主制の社会ではこの道は採れません。
 見たいものだけを見るのをやめれば、ジョージ・ソロスらが言う通り、日本への投資は中長期的には売りが基本で、今は短期的に買い基調で行きつつ一瞬で売り抜ける企図を抱く、というチキンゲームが見えてきます。
 カネがあれば何とかなると思っていた人にも、絶望してもらえるときが来ました。社会が沈み、カネもない中、「自分と大切な人からなる『我々』をどう守って生き延びるかが課題だ」という意識をシェアすべき段です。
 社会が沈み、カネもないというのは、損得勘定の〈自発性〉を動機付けとする「システム」が機能しなくなること。そこでは損得を超えた〈内発性〉を動機付けとする「生活世界」を手にできるかどうかが全てです。

(取材・文=編集部)

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