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小野島大による追悼エッセイ

ロックのなんたるかを教えてくれた山口冨士夫へ

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 彼らと同世代で交流もあった角田ヒロは、当時「村八分なんてストーンズとアリス・クーパーのコピーじゃないか」と言っていた。またCHARがセックス・ピストルズを聞いて「これ、村八分と同じじゃん」と言ったのは有名な話だ。ストーンズ⇒村八分⇒ピストルズというラインは、確かに実感がある。そしてぼくと同じように村八分のライヴに異様な衝撃を受けたのが、後にフリクションを結成したレックだった。レックは以前、ぼくとのインタビューでこんなことを言っていた。

「できかたが違うっていうか、冨士夫ちゃんやチャー坊がそれまで経験してきたものが、自分とは全然ちがうっていうか。(中略)それまでの日本のバンドとは全然ちがう匂いがあった」(『NU SENSATIONS 日本のオルタナティヴ・ロック 1978-1998』)

 その「まったく違う経験」とはなにか。それはたとえば海外放浪生活でリアル・ヒッピーなライフスタイルが完璧に身に付いていたチャー坊(ヴォーカル)の身のこなしやたたずまい、あるいは日本人の母と英国軍人の黒人の父の間に生まれ、3歳の時に施設に預けられ、過酷な差別体験を味わったという冨士夫の、戦後日本の混乱と矛盾を一身に背負った境遇なのかもしれない。もちろんぼくだって当時そんなことを知識として知っていたわけではない。だがロックとは音楽スタイルの一種ではなく、その人の人生や生き方の集積であり、「人間」そのものなのだと、村八分が教えてくれたのだった。

「オレたちは、あのくだらない戦争の、まさに傷あとそのものなんだ。わかるか? こんな話を聞いているあんただって、実はそうなのかもしれないぜ」(山口冨士夫・大野祥之『SO WHAT』)

 今となっては奇異に思われるかもしれないが、当時村八分のライバルと一部で見なされていたのが、矢沢永吉のキャロルだった。

キャロル「ルイジアンナ」

 実際、1973年5月12日には日比谷野音で「ロックン・ロール・タイトル・マッチ 村八分vsキャロル」というコンサートが企画されていた。当時ヒットを連発してセンセーションを巻き起こしていたキャロルと、まだデビューもしていなかった村八分が対等の立場でライヴをやるのである。当時の村八分の存在感がうかがいしれると同時に、両者に同質の匂いがあったことの証拠でもあるだろう。結局コンサートは中止となるのだが、『ニューミュージックマガジン』1973年7月号によれば、キャンセルを申し出たのは、当時コンサートのドタキャンやライヴの中断中止で悪名高かった村八分ではなく、キャロルの方だったという。

 矢沢と冨士夫は同じ学年で誕生日は一ヶ月しか違わない同世代である。戦争の煽りを受け、両親を早くに失い、幼少期から差別やいじめを受け貧困にあえいでいたのも同じだ。アーティストとしても、強烈なインパクトのグラマラスなヴィジュアル、「生き方としてのロック」を体現するような危険な匂い、圧倒的な存在感、ロックンロールの原点の魅力を叩きつけてくるシンプルでエネルギッシュな音楽性も、それまでの日本のバンドとは一線を画す演奏力という点でも、共通項がある。そしてフジテレビの番組「リブヤング」に出演することで一気に知名度を上げたのも同じだ。

 両者がお互いをどう思っていたのかはわからない。だが長い間英米の借り物でしかなかった日本のロックが、彼らによって真にオリジナルな次元へと飛躍していったのは間違いない。60年代後半以降の英米のロックは当時の公民権運動やベトナム反戦運動など反権力・反体制運動と連関して、カウンター・カルチャーの象徴として若者の圧倒的な支持を受けたが、日本でカウンター・カルチャーとしての若者音楽の役割を果たしたのはロックではなくフォークだった。結局日本のロックは(頭脳警察などの例外はあるにせよ)、政治性や思想性を抜きにした、若者の<理由なき反抗>、言い換えれば「不良の音楽」として側面を強めていくのだが、キャロルと村八分こそは、その動きを推し進めた両輪であったという見方も成り立つだろう。

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