『いだてん』の“オチ”は私たちが現実でつけるしかない SNSで熱狂的に語る人が絶えない理由

『いだてん』、なぜ人々は熱狂的に語る?

 12月15日。大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~』(NHK総合)が最終回を迎えた。

 チーフ演出の井上剛、プロデューサーの訓覇圭、脚本の宮藤官九郎を筆頭とする連続テレビ小説『あまちゃん』(NHK総合)のチームが再結集した本作は、オリンピック誘致と日本のスポーツに貢献した人々、そしてその背後にいる市井の人々を描く近現代を舞台にした歴史ドラマとなっていた。規模においてもクオリティにおいてもテレビドラマ史に残る金字塔になったことは間違いないだろう。

 制作が発表された当初は、2020年の東京オリンピックを盛り上げるためのプロパガンダ的作品になるのではないかと懸念された。しかし、出来上がった作品は単純なオリンピック礼賛でもオリンピック批判でもなかった。より根源的な「日本人にとってオリンピックとは何か?」と問いかける作品となっていた。

 第一部、日本マラソンの父と呼ばれた金栗四三(中村勘九郎)を主人公に描かれたのは「走る=身体を動かすことの気持ちよさ」というスポーツが持つ根源的な喜びだった。はじめて出場したストックホルム五輪の成績は惨憺たる結果で、西洋人との身体能力の差を思い知らされるものとなったが、今思えば、その敗北すらも甘美なものだったと思う。

 『いだてん』は金栗四三の残した日記を筆頭に、様々な一次資料を元に構築された作品で、登場人物の多くは実在した人々という実話を元にした物語だ。その意味でドキュメンタリー的なアプローチだったと言えるのだが、映像はどこか幻想的で、ファンタジーやSFを見ているような手触りが存在した。

 同時に本作は、落語の語りを用いたことで変幻自在な“お噺”となっていた。断片的な史実を紡ぎ合わせることで「オリムピック噺」という歴史を、志ん生(ビートたけし)が語り起こしていく姿、それ自体がもう一つのドラマだったと言える。それはそのまま、宮藤たち作り手がスポーツを通して見た近現代史を映像化していく過程とも重なる。それがより顕著となるのは、関東大震災を経由して主人公が金栗四三から田畑政治(阿部サダヲ)にバトンタッチされる第二部以降だ。

 走っていれば楽しかった牧歌的な時代が終わり、勝たなければ意味がないという時代がはじまる。オリンピックのためなら政治権力も利用する田畑の姿は、明治以降、富国強兵の名の元、欧米列強と対峙するために近代化していく日本の姿とどこか重なる。メダルの獲得数は以前とは比べ物にならないくらい増えていくが、第一部にあった「スポーツの楽しさ」は失われていった。

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