瀬々敬久のフィルモグラフィは連続性が見えてくる 『菊とギロチン』の“伸びやかさ”と“お祭り感”

松江哲明の『菊とギロチン』評

 瀬々(敬久)監督はメジャーとインディペンデントを常に横断している、現在の日本映画界の中でも特殊な1人です。前編後編にわたる大作『64-ロクヨン-』を手がけたかと思えば、その次の作品は低予算の『なりゆきな魂、』、続けて『最低。』、そしてまた大手配給会社の『8年越しの花嫁 奇跡の実話』と、こんなにも製作規模に振れ幅のある作風は、瀬々監督以外にいないと思います。だからこそ、勝手に瀬々監督は“バランスを取っている”のかなと思っていたんです。しかし今年5月に公開された『友罪』は、メジャーとインディペンデントを横断してきた瀬々監督だからこそ撮ることができた傑作だと感じました。どちらかではなく、どちらもを融合させる力がありました。

 そんな『友罪』を観た後に、この『菊とギロチン』を観ましたが、開放感がある映画だなと感じました。不穏な時代の空気を壊したい、でもそれを壊したいと思うその動機は何だ?と突きつけてくる。製作スタイルなどから『ヘヴンズ ストーリー』と比較されることが多いと思いますが、『菊とギロチン』は『ヘヴンズ ストーリー』にはない、“伸びやかさ”と“お祭り感”があります。

 瀬々監督の映画の特徴のひとつとして、“フィクションの飛躍”という要素が挙げられます。例えば、『ヘヴンズ ストーリー』の村上淳さんが演じていた刑事。少年犯罪の加害者と被害者を描いた物語である以上、刑事が登場することに違和感はありません。でも、この刑事は殺し屋でもあるという設定なんです。限りないリアリティを突きつけてくる一方で、フィクションでしかありえない飛躍も導入してくる。それはかつて瀬々監督が手がけていたピンク映画でもそうでした。その飛躍はときに物語のバランスを崩しているような気がするのですが、映画の完成度よりも“バランスの悪さ”こそを望んでいるようなところがあるんです。

 いまの日本映画はいかにバランスよく、お行儀よく、誰もが分かるように作るかというところに重きが置かれています。そんな作り方と瀬々監督のインディペンデントで作られた映画は真逆なんです。過去作を振り返ると、『トーキョー×エロティカ』は、映画を作りながら出演した役者たちのオフショット、さらには家族にまでインタビューを行って、役ではない時間を映画の中に取り込むという非常に実験的な試みを行っていました。ピンク映画からキャリアをスタートさせた監督たちに共通する点なのですが、セックスを撮りたいというよりも、映画を作るためにここにいるしかないという強さがあるんです。メジャー映画を撮るようになってもその志を持っているというのは本当にすごいことだと思います。

 瀬々監督はこの『菊とギロチン』を30年間も構想していたそうです。元遊女や、夫の暴力に耐えかねて家出をした女性など、ワケあり娘が集う女相撲の一座「玉岩興行」と、アナキスト・グループ「ギロチン社」の若者たちが出会い、“格差のない平等な社会”を目指すが……というのが本作のあらすじです。舞台は約100年前の大正時代ですが、2018年の物語と言ってもいいほど、扱っている問題は現代的なものに仕上がっている。撮影・製作していた時期と公開時期はほとんどの映画には大きな差があります。それにも関わらず、いまこのタイミングでしか成立しない、作り手も想像しないような、時代と作品がマッチしていくんです。劇中の台詞は過去が舞台なのに「現在」が感じられるのです。

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