菊地成孔の『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』評:<35ミリフィルムを使って70年代を再現した系>映画。の最高傑作としても全く異論はない。誠実で奇跡的な傑作

菊地成孔『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』評

ギャンブル依存と躁病性。という個人の病

 ウーマンリブ運動、LGBT差別の問題、というのは極めて社会的な問題である。厳密には数え切れないほどの個人個人の営為や欲望が、社会性にまで達するほど行使されたというべきだろう。

 しかし、再婚の妻を愛し、青年である連れ子も再婚の妻との幼子もこよなく愛する、心優しい、というよりは幼児性の抜けない天才テニスプレイヤー、ボビー・リッグスは、ギャンブルに依存してしまっている。

 ギャンブル依存の苦しさは、我が国の、特にユースからは失われてしまっても致し方ないが、マッチョの病であり(「男性の病」という意味ではない。「男性性の病」とするのが正しい)、昭和の御代には我が国にも「飲む、打つ、買う」という、すなわち、アルコール依存、ギャンブル依存、浮気依存の三羽烏として、殿方の深刻な問題だったので、記憶されている読者も多いだろう。

 しかし、筆者が感嘆したのは、彼がギャンブル依存との癒着体として、パフォーマンス依存、楽しませる依存、つまり躁病の地獄の中で、それと戦う姿が克明に描かれていることである。

 甘え腐った我が国の偽鬱病者は(念のため、真正かつ重症の鬱病者が存在しないとは決して言わない。偽鬱の可能性がフリーパス化されていると言っているのである)、鬱だから辛い、鬱だからかわいそう、鬱だから情けない、といった、鬱状態の弱度ばかりを嘆くが、ある意味、鬱以上に、止まらない赤い靴である躁病の方がずっと辛い。という事実は、特に我が国では余り知られ得ない。これは、やけくそになって誰彼構わず寝るビッチであるとか、毎日クラブに行ってナンパしないと、生きた心地がしないナルシシスト、とは全く違う。彼らは愛情飢餓からくる自己愛者で、躁病に罹患しているとは限らない。ハイであることは躁病とは違う。

 どんなに博打はしないと妻に誓っても、どうしても賭けテニスで勝ち続け、ロールス・ロイスが家に届いてしまうリッグスは、集団カウンセリング2つと個人の精神分析に通ってまでギャンブル依存を治そうとする、しかし、集団カウンセリングでは「問題はギャンブルをしてしまうことじゃない。負けることだ。お前らは負けたからここ来ているだけだ」と演説中にトランスしてしまい、精神分析のカウチでは、休憩中に分析医と楊枝を使った賭け事に没頭してしまう。躁病のなせる技である。

 そして彼は妻に別れ話をされるに至る。妻プリシラは言う。

「あなたは素晴らしいわ。男女ミックスなんて、本当にあなたらしい。誰でも自分らしくあるべきよ」

「私も、あなたが次々に奇抜なアイデアを出して、それを楽しんでいられた時代が懐かしいわ。とても楽しかった」

「でも、私に必要なのは、落ち着いて支えてくれる夫なの。あなたは悪くないわリッグス。でもさようなら。ごめんなさい」

 鬱によって愛が終わるかとは多々ある。しかし、躁なら愛が終わらない、などということは決してない。リッグスの孤独は、ビリー・ジーンのような明らかな被差別性のない地点で、重く深い。

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