宮台真司の『万引き家族』評:「法の奴隷」「言葉の自動機械」となった人間達が社会を滅ぼすことへの激しい怒り

宮台真司の『万引き家族』評

布団が艶めかしかった昭和と共に失われたもの

 布団の話から始めます。昭和には和風ラブホテル──「旅荘」──がありました。門をくぐると仲居(従業員)の女性が出迎えて、部屋へと案内してくれます。部屋番号ならぬ「楓」「椿」などと部屋名が付された扉が開けられると、卓袱台と畳だけが見えます。しばらくお待ち下さい、と中居が一旦引き下がります。

 茶と茶菓子を盆に載せた再び中居がやって来ると、「ごゆっくり」と一言残して立ち去ります。何かを仄めかしているように感じてゾクっとした二人は、対面しつつ茶菓子を口に運んでしばし雑談します。それでもお互いにこれから起こる事が分かっているから、どこかしらじらしくてギコチないのでした。

 そして、会話がふと途切れた時が「その時」です。相手の手に触れて見つめ合い、手を取り合って立ち上がります。襖(ふすま)を開けると、そこはいきなり非日常の時空。艶めかしい色の行灯に照らされて大きな布団が敷いてあります。そこからは異次元空間です。まるで布団がこれから起こることを待ち構えていたように感じられたものです。

 平成に入ると──1990年代になると──「旅荘」的ラブホは姿を消しました。普通のラブホでは残念なことに、初めからベッドが目に入ります。二人が対面して座するための「卓袱台と茶菓子」、という日常の擬態もありません。二人を誘惑するかのように佇む艶めかしく照らされた布団もありません。そう、「境界の両義性」が姿を消したのです。

 昭和34年に生まれた私は、中学3年まで団地暮らしでした。どのベランダにも布団が干してありました。中学生になった私にはそれが艶めかしく感じられたものです。当時はクーラーがなかったから夏の夜中には開け放たれた窓から「あの声」が聞こえたりもしました。干した布団はそれを思い出させるのです。そうした布団も「境界の両義性」でした。

 当時の団地はだいたい2DKです。だからどこの家にも寝室はありません。当然ベッドもありません。普通の部屋に布団が敷かれました。余所の家に行くと、「そこ」に敷かれる布団とその上で行われる営みを想像して、やはり艶めかしく感じました。思春期を迎えた中学生にとって、布団はどこにあっても只ならぬ気配を漂わせる何かだったのです。

 布団がそうだったので、布団が敷かれる畳や、敷かれた部屋を仕切る襖にさえ、艶めかしさを感じたものです。私(たち)にとってはそれが「昭和の時空」です。そこに両親と子供2~3人が共住しました。だから『万引き家族』の登場人物たち──万引き家族たち──が住む古い小宅を見ると、昭和を感じざるを得ません。それはどこかしら長閑でもある。

 実際、この映画は、「昭和と共に過ぎ去ったもの」と「平成が連れてきたもの」について語ろうとしていると言えます。それをこれから、1.法と法外、2.勧善懲悪の否定、3.都市的エロス、4.隠喩としての音楽、の4項目に即して紹介しようと思います。すると、私たちの平成社会のどこが「狂っている」のか自動的に分かる、という寸法です。

法と法外──ontologyとrealismが必要な理由

映画には、万引きを生業とする疑似家族──万引き家族たち──が登場します。彼らは法の外つまり「法外」で生活しています。いろいろな理由で「法内」から弾かれた者たちばかりです。「祖母」の年金だけでは足りないので、彼らは連携して万引きをしています。「祖母」以外に「父」「母」「母の妹」「長男」がいますが、やがてそこに「長女」が加わります……。

 かつて是枝監督は似た映画を撮っています。『誰も知らない』(2004)です。親が死んだので戸籍登録されていない子供たちが「法外のシンクロ」を生きる……。『万引き家族』と同じく実話に触発された作品でした。そこでは、初めは楽園に見えた子供の領分が、やがて崩壊する様が残酷にも描かれます。そして、万引き家族たちもまた崩壊するのです。

 違う点も際立ちます。万引き家族たちの営みが楽園ではないということ。彼らは「法外のシンクロ」=「生存戦略と仲間意識」で繋がります。生存戦略あっての仲間意識。逆ではありません。だから逆境では「仲間=家族」を置いて逃げます。レオ・レオニ『スイミー』の読み聞かせが出てきます。小さな魚が集まって大きな魚のフリをする……。問題はその先です。

 一人じゃできないことも皆でやればできるが、皆といると足手纏いなら一人で逃げる──そう、定住以前の遊動民ないし先住民のように。だから「父」も逃げたのです。定住以前に法はありません。法は1万年前の定住革命で生まれます。定住を支える余剰収穫物の所有を保護するためです。法が持ち込まれることで[法内/法外]の区別が生まれました。

 定住以前は遊動民です。その作法を今に伝えるのが先住民。彼らは法の代わりに「生存戦略と仲間意識」を頼ります。他方、私たちは法を頼ります。法の内つまり「法内」は約束の世界。やがて「法を守りさえすれば生きられる」部分が大きくなります。すると私たちは「間接化」されて、「どうすれば生きられるか=realism」を考えずに生きられるようになります。

 先住民は所有を理解せず、定住民に差別されます。それを描くのがA・ケンネル監督『サーミの血』(2016)。でも「法の奴隷」と化した定住民は、「法外でシンクロ」する力を持つ先住民を祝祭時に「聖なる民」として召喚。失った(ケガレた=気枯れた)力(ケ=気)を回復します。先住民は「間接化」されない分、realismを具現します。主人公少女の身体性がそれです。

 さて、「法外」においては、「どうすれば生きられるか=realism」は「世界はそもそもどうなっているか=ontology」を踏まえねばなりません。さもなければ生きられないからです。ただし世界とはありとあらゆる全体です。だから部分である私たち人間に全体が姿を現すことはありません。そのことは「なぜ世界が存在するのか」と問えばすぐに分かることです。

 この問いに答えが存在するなら、答えは世界の部分ですから、「世界という全体」が「答えという部分」に対応することになります。これは背理です。世界が存在するなら理由を問えるはず。なのに理由を問えない。ということは、世界は(認識できないのではなく)存在しないのです。これは「新しい実在論」を提唱するマルクス・ガブリエルの有名な論法です。

 にもかかわらず私たちの振る舞いは「常に既に」ontologyを先取りします。なのに先取りされたontologyを私たちは示せません。規定不可能だからです。AIはどうか。人による初期入力を前提としたビッグデータからのディープラーニングという「疑似ontology」はありますが、それはいつも部分に留まる。つまり全体を先取りするontologyがないのです。

 だから非常時に奇跡の振る舞いを見せる「真実の瞬間 the moment of truth」もありません。クリント・イーストウッド監督『15時17分、パリ行き』(2018)の観光記録ビデオの如き趣きは、「英雄は自分が英雄であるのを知らない」という監督の信念に対応します。マシンガンに向けて突進した自分のontologyを、主人公は「後から」知るという訳です。

 ontologyは「存在論」と訳されて来ました。独語Sein(ある)が「存在」、Dasein(そこにある)が「現存在」と訳されてきたのと同じで、訳語を見ただけでは意味不明です。ontologyの正しい意味は「世界はそもそもどうなっているか」。その場合、「世界は」という全体性への指示と、「そもそも」という間接性の除去にポイントがあります。既に話した通りです。

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