『火垂るの墓』『この世界の片隅に』は“反戦映画ではない”のか 高畑勲監督の発言などから検証

『火垂るの墓』は“反戦映画ではない”のか

清太の罪の意識の浄化

 『火垂るの墓』では、空襲で民家が次々に燃え、清太の母親は全身にひどい火傷を負ってしまうが、その焼け野原にいた男はこんなことを言っている。

「うちだけが焼けなんだら、そらもう肩身が狭いやろな。焼けてさっぱりしたわ」

 近所のみんなが焼け出されてるのに、自分の家だけが無事だったら恥ずかしいという、いかにも日本人的なムラ社会の発想であるように思える。しかし、この後ろめたさが、生死に関わる問題になってくると、よりシリアスなものとなって人の心を苦しませる。同様に、自分だけが生き残ってしまった清太は、節子と同様に衰弱死することで、やっと節子と“同じ”になれたと思った。そして幽霊になった清太は、やはりさっぱりとしているように見える。これは彼の罪の意識が、一つの儀式を経て浄化されていることを意味する。

 しかしその以前に節子は、「兄ちゃん…おおきに」と自分のために力を尽くしてくれた清太に対し、感謝の言葉を残しているのである。本当は、清太の罪はここで許されていた。この後、清太はあのおばさんの家に帰り、自分が生き残る道を模索しても良かったのだ。

兄妹はなぜ幽霊になったのか

 ところで、「幽霊」とは何だろうか。私は、幽霊という存在は、それを見る人の心が投影した、まぼろしのことだと理解している。それをおそろしいと感じるのは、それがその人の、後ろめたさや罪悪感の象徴となっていることが多いためであろう。だから幽霊に見つめられるというのは、自分のなかに咎められるべき罪の意識があるということだ。

 では、清太と節子が見つめているものは何だったか。それは、ラストシーンでついに姿を見せる現代の神戸の街…つまり、それが象徴する現代の日本社会そのものである。日本社会は、いまだに清太や節子のような死んだ者たちに対して責任をとっていない。そして他の様々な責任を回避し合うゲームを繰り返しているのである。そのシステムが健在である限り、同じ間違いを何度でも繰り返すだろう。

 しかし、話はそれだけでは終わらない。そんな社会を作り、「空気」を作り上げているのは、現代に生きる私たちなのだ。ということは、兄妹の幽霊が視線を投げかけていたのは、そんな私たち観客一人ひとりであるといえる。この映画を「自己責任だ」と切り捨てたくなったり、「二度と観たくない」と目を逸らしたくなる人々がいるのは、そういう意味では当然のことだろう。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

※メイン写真:『この世界の片隅に』
(c)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

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