>  > 荻野洋一の『ラブレス』評

ベルイマン映画に重なる“交わらない視線” 『ラブレス』が提示する、映画の残酷さと凄絶さ

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 ノンフィクションではあるまいし、これほど凄絶な悲劇はそうはないのではないか。かつてイギリスの劇作家シェイクスピアがあえて露悪さをいとわなかったように、映画もまた、陰惨さと残酷さがお手のものである。あとはそれをやる作り手の自虐と自責とがどれだけ耐えられるかだろう。その耐久が成就したとき、映画は、残酷さを容赦なく提示しつつ、それを決して露悪ではなく人間性の告白として投げかける表現となりうる。

 秋も深まりつつあるロシアの首都モスクワ。ここは高層マンションが林立するモスクワ郊外の住宅街。小学校を下校した12歳少年アレクセイが、森林の中を寄り道している。捨てられたビニールの紐をつかんで上に放り投げると、ビニール紐は木の枝に絡みつき、まるで紐が枝でもって首をくくっているように見える。アレクセイ少年の住む家は80平米を超える家賃の高そうなデザイナーズマンションで、彼の勉強部屋からは先ほどの鬱蒼とした森林が一望できる。郊外の高層マンション街のど真ん中にぽっかりと広がる、開発から取り残された森林。公園というほど整備されているでもなく、旧ソビエト連邦時代の建物とおぼしき廃墟が放置されていたりもして、森はいよいよその茫漠たる印象によって迷いこんだ者を襲わずにはおかない、じつに禍々しい空間としてそこにある。


 しかしアレクセイ少年の実生活の陰惨さに比べれば、茫漠たる森林の佇まいも天国にしか思えないかもしれない。彼の両親は離婚訴訟中である。父親も母親もそれぞれ愛人を作って、新しい幸福にむかって舵を切ろうとしている。この男女がそれぞれの愛人宅から夜中・早朝に帰宅してから始める夫婦げんかは聞くに堪えないシロモノで、たがいのエゴイズムを毒々しくぶちまけるだけの醜悪な争いである。人は、女と男は、もはやここまで修復不可能なまでに関係を悪化させることができるのか。身がすくむ思いがすると同時に、怒りの感情すら覚える。この男女にとって彼らの12歳息子は、たがいに押しつけ合う単に厄介な存在になり果てている。大げんか途中で母親がトイレで用を足す、そのドア裏で息子が、これほどの絶望はあるだろうかという顔で、声を出さずに慟哭している。


 森の手前には丘の斜面がある。子どもたちや親たちが遊んだり井戸端会議したり、ソリで滑ったりしている。その光景をガラス越しに少年が見下ろす。森、そして丘。これらは非常にソビエト的な空間性だ。アンドレイ・タルコフスキーの『ストーカー』(1979)の森を、ニキータ・ミハルコフの『オブローモフの生涯より』(1979)の森を、セルゲイ・パラジャーノフの『火の馬』(1964)の丘を思い出すとき、この『ラブレス』冒頭に示される、雪が降り始めた初冬の森の無人ショットが、ある歴史的な連鎖だと確信する。それは時に慰撫でもあり、時には禍々しさにも満ちる。

 ある日、少年は蒸発する。それは自分を顧みてくれない両親への恐怖ゆえか、それとも抗議ゆえか。とにかく消えてなくなる。ところが両親は息子の失踪に2日間も気づかない。警察に届けるが、モスクワ警察は官僚的な対応に終始し、あげくには「ボランティアの民間組織がより迅速に対応してくれるだろう」などと述べる始末だ。しかし、ここから映画はいっきに転調する。民間ボランティアの失踪児童の捜索隊が動員され、綿密な捜索計画のもとに活動が始まる。両親もこの捜索活動に取り込まれていくが、エゴイスティックな反目はあいかわらずである。

 拙記事の冒頭で述べたように、この映画ほど凄絶な悲劇はそうはない。それほど残酷であり、冷血な人間関係が浮かび上がる。これに比すべき残酷さは、イングマール・ベルイマンの最高傑作『冬の光』(1962)か、同じくベルイマンのTVドラマシリーズ『ある結婚の風景』(1974)くらいだろうと思いきや、当の本作監督アンドレイ・ズビャギンツェフ自身が、「『ラブレス』は、時代と登場人物の設定を変えて、イングマール・ベルイマンの『ある結婚の風景』と対になるものとして描きたかった。自己認識や自己不信の感覚を欠いた都会人、今日の平均的な中流家庭の夫婦を登場させて」(日本公開用プレスシートより引用)と述べているではないか。

      

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