>  > 荻野洋一の『ワンダーストラック』評

『キャロル』は手法上のリハーサル? 『ワンダーストラック』は混乱しつつ、なおかつ透明たりうる

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 トッド・ヘインズ監督の前作『キャロル』は素晴らしい映画だったけれども、新作『ワンダーストラック』を前にした今、『キャロル』は『ワンダーストラック』のためのあくまで手法上のリハーサルだったのではないかとさえ思われてならない。『キャロル』の中で車窓のガラス面や水滴のカットにかいま見えた物質的想像力が、今回は堰を切ったように全面展開してゆく。『ワンダーストラック』は非常に混乱した映画ではある。混乱しつつ、なおかつ透明たりうるという相矛盾したことが生起する、そんな稀有な瞬間の集積こそ、『ワンダーストラック』という時間なのだ。

 1977年──主人公はミネソタ州の寒村に在住、母親を交通事故で亡くしたばかりの12歳少年ベン(オークス・フェグリー)。もともと父親はいない。ベンを演じた子役俳優オークス・フェグリーは、ディズニーの実写ファンタジー『ピートと秘密の友達』(2016)でやはり両親を事故で失う孤独な少年を演じた。『ピートと秘密の友達』は、ルーニー・マーラとケイシー・アフレックが共演して高い評価を得た『セインツー約束の果てー』(2013)のデヴィッド・ロウリー監督の長編2作目ではあるが、なんとも不当な低評価にとどまっている。この『ピートと秘密の友達』はファンタジー映画史上に残る傑作であったのに、この不当な低評価は受け入れがたいものであり、同作におけるオークス・フェグリーは子役史上の名演技だったことは、この場を借りて強調しておきたい。

 少年ベンが母親といっしょに2人で住んだ家。そこにはまだ母の残した遺品がそのままになっている。近く伯母がこの家を売却するのだという。息子のベンを寝かしつけたあと、母親(ミシェル・ウィリアムズ)は自分ひとりの時間を満喫する、という回想シーンが出てくる。好きなレコードをかけ、好きな本を読む。眠れないベンが起きてきた時、部屋ではデヴィッド・ボウイの「スペース・オディティ」のイントロがかかっている。壁にはイギリスの劇作家・詩人オスカー・ワイルドの名言「俺たちは皆 ドブの中にいる。でもそこから星を眺める奴だっている」と書かれた紙切れが留めてある。この「ドブ」と「星」こそ、この映画の主題だ。この映画の、と同時に、この世界のあり方そのものを大摑みで提示していると言っても過言ではない。

 母親の死後、彼女の遺品に囲まれながら、なぜか突然の落雷に撃たれて聴覚を失った彼は、父親の居どころを探すために家出する。ところ変わって1977年のニューヨーク、マンハッタン。聾(ろう)者になったばかりのベン少年が歩く1977年のニューヨークは、いささか刺激が強すぎる。彼の難聴を表すように雑踏や交通のノイズがカットされ、ノー・モジュレーションの上に当時の(主に)黒人音楽が大音量でかぶさって、彼にとってまるでここは別の惑星のようだ。カルチャーショック、好奇心、不安、空腹、疲労、睡魔、それから運命の手引き。そうした事柄がいっぺんにベンに襲いかかる。それを観る私たち観客もベンに乗り移り、聾者として1977年のマンハッタンにタイムスリップする。それは強烈な視覚的、嗅覚的、触覚的体験であると同時に、聞こえないという不可能性も含めた聴覚的体験でもある。

 じつはこの映画にはもうひとつの物語がある。場所は同じニューヨーク。だが時代は1927年。経済恐慌に襲われる前の活気溢れる大都会の息吹が、荒々しくひとりの少女を翻弄する。生まれつきの聾である少女ローズ(ミリセント・シモンズ)。彼女は大の映画ファンで、リリアン・メイヒュー(ジュリアン・ムーア)というスター女優の追っかけである。時はサイレント時代。聾者のローズにとって、他者に遅れをとることなく受容できる理想の世界こそ、サイレント映画なのである。彼女がガラガラに空いた劇場でリリアン・メイヒュー主演の『嵐の娘(Daughter of the Storm)』という映画を観て涙を流すシーン(いや、劇場に座った少数の全観客が泣いているのだが)がなんとも素晴らしい。『Daughter of the Storm』というタイトルは、メイヒューと同じファーストネームを持つスター女優が主演したD・W・グリフィス監督『Orphans of the Storm(嵐の孤児)』という1921年の名作をもじったものだろう。

      

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