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『スリー・ビルボード』が描く、善悪混淆と人間の多面性

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 ミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)の深いしわが刻まれたその顔は、砂漠のようにカラカラに乾いている。その乾きは、もはや感傷的な涙などではたやすく潤うことを許さない。愛娘を殺され、難航する捜査に対する憤りを鎮火させることのできない母親ミルドレッドは、町の辺ぴな場所に建てられた3つの看板にウィロビー署長(ウディ・ハレルソン)へ向けた広告を出す。その広告を巡り、ミルドレッド、ウィロビー、ディクソン(サム・ロックウェル)の3人が群像劇を繰り広げるのが本作『スリー・ビルボード』である。

 映画の冒頭でミルドレッドが見つめる先にある、その寂れた広告に残された“Your life”の文字が告げるように、この物語は彼らの物語でもあると同時に、“あなたの人生”の物語そのものである。ミズーリ州のエビングという田舎町、それ自体は架空の町であるが、そこで描かれる世界は私たち観客の住む世界と相違ないだろう。なぜなら、世界は単純な正義と悪の二項対立ではなく、それぞれが信じる正義と正義のせめぎ合いで構成されているからである。善人と悪人が拮抗しているのではなく、芋虫と蝶が一個体であるように、一人の人間が善人であり、悪人でもある。それはミルドレッドが劇中、うさぎのスリッパを使って一人二役を演じ、自問自答する場面が示唆する真実である。娘を奪われた哀しき母親は無頼な戦士へ、権威であったウィロビー署長は優しき父親へ、飄逸で幼稚なディクソンは仁義にのっとった警察官へ、多面体が転がり続けるように、彼らの人物像は平面に陥ることを忌避する。マーティン・マクドナーは、そんな善悪混淆と人間の多面性を巧みに戯画化して描き出している。その卓越した脚本で、第90回アカデミー賞では脚本賞を獲るのではとも呼び声高いが、第78回同賞で脚本賞を受賞した『クラッシュ』(2006)もまた、人種差別を通じて同様のテーマを描いていたことを本作は想起させる。

 そうすると、本作に登場するフラナリー・オコナー『善人はなかなかいない』が重要な意味を帯びてくる。この小説では、一家皆殺しの惨劇が描かれる。それを引き起こすのは物語の中心を担う人物、祖母なのだが、この祖母の人物像はきわめて善悪混淆に描かれている。また、家族に手を下すのはミスフィットと呼ばれる脱獄犯だが、彼は自身の境遇を受け入れることができず、同情的に描かれている。この小説における世界観は、まさに『スリー・ビルボード』のそれと通底する。そして、脱獄犯はミスフィットをはじめとする“3”人であり、家族のうち、祖母だけは“3”発銃を撃ち込まれるのである。

 ミルドレッドの乾いた顔は、感情を決して豊かには表出しない。内に秘めた彼女の行き場のない憤怒を代弁するものは、ここでは炎である。それはタルコフスキーの『ノスタルジア』において、生命と魂を象徴していたささやかなるろうそくの炎とはかけ離れており、どちらかといえば、カラックスの『ポンヌフの恋人』で浮浪者アレックスが大道芸で口から噴いていたその炎のどう猛さに近しい。本作で役者がどれも本物の演技に身を投じているように、二度起きる炎上の場面もまた、本物の炎を使用して撮影された。その役者による演技の熱と炎上の炎の熱は相乗的にスクリーンを通して、私たちの身体を熱していく。

      

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