“17歳の大林宣彦”による映画への誓い 荻野洋一の『花筐/HANAGATAMI』評

荻野洋一の『花筐』評

 クランクイン直前にロケ先の病院で余命3ヶ月を告げられた末期ガンの映画作家が、3時間にもおよぶ華やかな青春映画を豪快に撮り上げてしまう。『花筐/HANAGATAMI』では、にわかには信じられないことが本当に起こってしまっている。と同時に、どの1カットを見ても、この映画作家のものであることがたちどころに分かる。つまりこれまでと変わらぬ大林宣彦の映画がそこにある。本人は「ガンのおかげで緊迫感のある映画になった」と述べているようだが。

 若き日の檀一雄が1937年に発表した短編小説「花筐」の映画化を大林が企図したのは、なんと今から40年以上も遡ること1975年。初の劇場用映画となった『HOUSE ハウス』(1977)以来、すべての大林映画がこの「花筐」に先んじる形で実現していった作品たちであり、じつは彼のフィルモグラフィが潜在的に「花筐」映画化断念の歴史であり続けたことに改めて気づくとき、遙かなる感慨と共に溜飲が下がる思いに囚われるのは、映画作家本人だけではなく、大林映画を見続けたファンもそれは大なり小なり同じだろう。大林を息子のように可愛がった黒澤明監督は、かつて彼にこう述べたという。「おれにだって、映画にしたい企画の二十や三十はいつでもあるよ。だけども、そのどれをやるかだけは、おれには決められないんだ。映画にも果実と同じで、それが実るべき旬があるんだね」。

 とすれば、完成、公開のはこびとなった現在こそ、映画『花筐/HANAGATAMI』の実るべき旬ということになる。その旬が、映画作家にとって末期ガンによる余命宣告と共に訪れるという事実は皮肉なことであるし、また、戦時の若者たちの心痛や自由への渇望をえがく本作にとっての旬が、戦争法案の強行採決と軌を一にしたという事実にも、歴史の皮肉と思わずにはいられない。戦前日本のモダニズムが3時間にわたって猛威を振るうという本作のありようは、現代日本への痛烈な批判ともなってくる。戦前の浪漫主義、虚無主義、耽美主義、少年同士の同性愛、少女同士の同性愛、生の爆発と死への欲動。そうしたものが渾然一体となり、画面の中を稲妻のごとく暴れ回る。古いと同時に新しい。他の作り手にはマネはできないだろう。

 戦時の若者たちの苦悩、死への覚悟、自由への渇望が描かれているからといって、作品は巨匠タッチによって重くたわんだりするわけではない。ここでもやはり、画面と音響は呆れるほど大林的で、落ちつきのないカット割り、滑稽さ一歩手前の間欠フリーズ処理、手作り細工風の特撮、しつこく繰り返されるスライドインによる場面転換、主人公・榊山を演じた窪塚俊介の失笑を呼び込む大仰な「少年的」演技、『HOUSE ハウス』以来おなじみの少女たちの「少女的」演技。大林映画に対する苦手意識も生んだこれらの特長は、今回も3時間にわたってまったく途切れることなく持続し、加速する。しかも、そもそも榊山は17歳の大学予科(いわゆる旧制高校にあたる)の生徒という設定なのに、演じているのは現在36歳になる窪塚俊介である。彼の同級生たちとなると、驚くなかれ、42歳の長塚圭史をはじめ、28歳の満島真之介、同じく28歳の柄本時生。彼らを17歳の学生という役に押し込めてしまう大林宣彦の力技、というより筆者に言わせれば、これは極度のロマンティシズムの発露による狂気だと思うが、とにかく42歳も36歳もみな、17歳の大学予科の生徒であり、みな美しい少女に恋をしており、そして何より大林監督自身がつねづね述べているように彼らは皆「僕の分身」なわけであって、そのとき大林宣彦自身も17歳になっている。

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