観客の評価が二分した『ブレードランナー 2049』は内容的な成功を遂げたのか?

小野寺系の『ブレードランナー 2049』評

 何度も何度も同じ映画を繰り返し鑑賞した経験があると分かるように、観客を退屈させないよう早いテンポでカットをつないでいくような技術の重要性というのは、繰り返し見るたびに限りなく低くなっていくものだ。そればかりか、同じ内容で3時間、4時間と長い再生時間でじっくりとシーンを描くものの方が、むしろ楽しめる場合もあるだろう。本作は、この退廃した美の世界のなかにいつまでも浸っていたいと願う観客の望みを叶えている。ビデオでの繰り返しの鑑賞を想定し、さらに劇場においても、観客にあえてそういうテンポの楽しみ方を提示しているのだ。インターネットでの動画配信サービスが浸透し、作品に与えられた時間の枠が多様化しつつある現在、本作の試みというのは、作品そのものが要請する時間に応えたものになっているといえる。だから表面的には、本作が間延びした退屈な映画だと思われてしまうのも道理といえるだろう。だがその判断はあくまで、「映画はテンポよくタイトな時間に収まった方が気持ちがいい」という、従来の映画の常識にこだわった保守的な見方に過ぎない。

 しかし前作『ブレードランナー』は、ハードボイルドな「刑事もの」として、従来のジャンルの型にはまった楽しみ方ができる作品だったというのも、また確かである。前作ではデッカードが、逃亡しようとする女性型レプリカントを背後から撃ち抜くなど「汚い仕事」をこなしていくなか葛藤することで、緊張感とニヒリズムを醸成していたが、本作の「K」は“ブレードランナー”としての任務に従事する場面が少なく、自分探しをするための捜査を始めてしまう。これが前作ほどの圧迫的な閉塞感が味わえない理由であるだろう。その意味では、前作の一部ファンの不満というのも理解できるところだ。

 コアなファンの多い『ブレードランナー』の続編を撮るという大役を引き受けたドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の仕事が、その点において「完璧」とは言い難いのは、あくまで娯楽映画としての骨格を残していたリドリー・スコットの作家性に比べると、内省的で繊細過ぎる感性から、エンターテインメントとしてのダイナミックさに欠けるという部分があるからであろう。しかしそれすらも、前作がジャンルの枠を押し広げたのと同様に、「娯楽映画」という意味が変質していく映画史の過程の一部なのかもしれない。そう思わせるコンセプトとしての「大胆さ」が本作に備わっていることは確かなのだ。

 本作はそのようにアプローチの方向を一部変えながらも、前作の核となる部分を追求し、さらにそれを見事に明確なものにしている。『ブレードランナー』が描いたものは、「管理」と「自由意志」の葛藤である。自分たちの創造主たる人間に反逆するレプリカントたちは、かつて人間の都合のいいように利用されるだけの奴隷だった。だが彼らがその支配を逃れてもなお、レプリカントの肉体にあらかじめ設定されていた寿命には抗えない。そして植え付けられた偽りの記憶を頼りに生きていかなければならないのだ。

 そんな彼らを殺害していくデッカードもまた、組織の命令によって縛られた存在だ。「二つで十分ですよ」と言われてしまうように、屋台で好きに食事を注文することもままならない悲哀に満ちた男なのだ。つまりブレードランナーという存在も、レプリカント同様に社会から抑えつけられた状態にあり、一部の人間や組織によって都合よく消費される奴隷なのである。デッカードは、自分が愛してしまったレプリカント「レイチェル」をも殺害しなければならないことに悩み、組織の管理に対し「服従か反逆か」運命の岐路に立たされることになる。

 本作の「K」も、勤務先の警察で従順さを確認される「行動テスト」を受けなければならないような、自由な意志を持たされていないブレードランナーであり、かつレプリカントである。そんな彼の生きる喜びは、ホログラムで表現される人工知能の恋人「ジョイ」だけである。

 「K」とジョイが遺伝子について語り合う場面がある。人間やレプリカントの存在が、A、T、G、Cという四種類の遺伝情報によってかたちづくられているように、ジョイのようにデジタルデータによって構成される存在もまた、1と0という二種類の情報によってかたちづくられたものだ。その意味では、本作から短期の寿命という枷から解放されるようになったレプリカントと人間との間の差異がほぼ無くなったことと同様、彼ら生体とデジタルデータもまた、本質的には同じ存在かもしれないということが描かれている。

 自分の頭の中にある「記憶」が、植えつけられた偽物だと納得していた「K」は、自分の記憶にある出来事が真実であったことを突き止めると、自分は本物の記憶を持った特別な存在なのではないかと考え始める。彼を日々励ましているジョイも喜び、彼に「ジョー」という名を与える。はじめは消極的ながらも、「K」は自分がジョーという一個人であるという自覚を持ち、尊厳を見出す。そして、その先に待ちうけている過酷な真実に到達するため核心に迫っていく。

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