黒沢清は、劇団イキウメの人気舞台をどう映画化した? 『散歩する侵略者』に吹く“不穏な風”

舞台『散歩する侵略者』はいかにして黒沢映画に?

 実写映画では、観客誰しもが見たことあるような、いわば現実が映り込む。その現実の強度を上げるのが、舞台では観客の想像力に頼るしかない、自然の存在だろう。草の緑に、こぼれる陽光。流れる雲に、木々をざわめかせる風。とりわけ風を用いた演出は、黒沢映画においての“不穏な風”として、いつにもまして侵食の恐怖にはたらきかけた。画面内に吹き入る風の禍々しさにゾッとしながらも、これこそ楽しまずにはいられないのだ。


 ジャーナリスト・桜井(長谷川博己)と、侵略者のひとりである天野(高杉真宙)が出会う場面、彼らの背後には、一家惨殺事件の舞台となった家屋と庭が見えている。風にざわつく草葉は、高杉の不穏な佇まいを印象付け、この背後で起った惨劇は彼らの仕業かと仄めかすかのようだ。また劇中初めて目の当たりにする概念奪取の瞬間、侵略者と化した加瀬真治(松田龍平)が、妻(長澤まさみ)の妹・明日美(前田敦子)から「家族」の概念を奪う。このシーンにある前田の目元のクローズアップは、実際に涙が落ちる(概念を奪われると、生理現象として涙を流す)瞬間を捉えた。松田が侵略者としての能力を見せた、奇妙で恐ろしい瞬間だ。しかしそれ以上に恐ろしいのが、「家族」の概念を失った前田が、肩に触れた姉の手を何か汚いもののようにつまみ上げ、解き放たれたように清々しく去っていく姿。このシーンの長澤に、風が一瞬吹くのである。彼女の髪を怪しくなびかせた風は、まさしく日常の侵食を告げていた。前田を見送る長澤の、呆気にとられた表情。妹の突然の変貌に戸惑うというよりも、これから始まる侵略劇に、無意識に怯えているとも受け取れたのだ。

 映画『散歩する侵略者』は、映画だからこそ見せることの出来るクライマックスが用意されている。舞台や小説で描かれなかった、世界が絶望に陥る瞬間と、その後。CGや照明を派手に用いて、あからさまに絶望を映像として見せたこのクライマックスは、やがてかすかな希望へと行き着く。終末的世界に生きる、“愛”を失った長澤と、“愛”を知った松田。真っ白な光に包まれた長澤に、松田はたったひとこと語りかける。これまでこの映画の中になかった、最もさりげなく、最も優しいひとことだ。松田のこの言葉の人間らしい響きには、もちろん生理現象などではない、ほんとうの落涙を免れないのではないだろうか。

■折田侑駿
映画ライター。1990年生まれ。オムニバス長編映画『スクラップスクラッパー』などに役者として出演。最も好きな監督は、増村保造。

■公開情報
『散歩する侵略者』
全国公開中
監督:黒沢清
原作:前川知大「散歩する侵略者」
脚本:田中幸子、黒沢清
出演:長澤まさみ、松田龍平、高杉真宙、恒松祐里、長谷川博己ほか
製作:『散歩する侵略者』製作委員会
配給:松竹/日活
(c)2017『散歩する侵略者』製作委員会
公式サイト:sanpo-movie.jp

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