長瀬智也と坂口健太郎、対照的な愛のかたちーー『ごめん、愛してる』怒涛の最終章へ

長瀬智也と坂口健太郎、対照的な愛のかたち

 守ることができない、何もしてあげられない、だから一緒にいても無駄……愛を知らずに育った律(長瀬智也)が発する言葉は、一つひとつが不器用で、切なくて、見ていて抱きしめてあげたくなる視聴者も多くいるのではないだろうか。9月3日に放送された日曜ドラマ『ごめん、愛してる』(TBS)の第8話は凜華(吉岡里帆)を鏡に、律とサトル(坂口健太郎)の愛の形が対象的に描かれた。

 律は脳内に残った弾丸によって、サトルは生まれつきの弱い心臓によって、死を意識しながらの生活を送っているという意味では共通している。だが、決定的に違うのが、愛情に恵まれて育ってきたかという経験だ。律は、母・麗子(大竹しのぶ)に捨てられたという過去が強烈な劣等感となり、自分から求める愛の形を知らない。助けること、役に立つこと、つまり相手にとってメリットがある存在でなければ、側にいる資格がない……そう考えているのだろう。一方、麗子から愛情たっぷりに育てられたサトルは、逆に身を引くという愛の形を知らない。自分が欲しいと思ったら、誰にも遠慮せずに意思表示する。すぐに“結婚“にこだわるのも、母との強い絆が経験として心に残り、愛情表現として“家族になる“ことが最も大切なのだと信じているからだろう。

 PULL型の律と、PUSH型のサトル。愛情の形に正解はない。だが、どちらも相手の状況を見ずに動いてばかりいても、決して満たされることはないのだということが、このドラマを通じて見えてくる。想いを告げた凜華に理由も述べずに拒否することしかできなかった律も、塔子(大西礼芳)に振られた途端に凜華の大切さに気づき急激なアプローチを始めたサトルも、凜華がどうしたいのかを一緒に考えていく余裕がないのだ。それは、命のリミットが迫っているがゆえなのか、それとも恋愛にはそんな愚かさがつきものなのか。実の兄弟であるふたりの正反対な行動が、愛する難しさを浮き彫りにしていく。

「まいごのまいごのこねこちゃん あなたのおうちはどこですか」若菜(池脇千鶴)が歌う『いぬのおまわりさん』は、まるで愛を求めてまよう登場人物たちのようだ。本当は「わんわんわわーん」と歌うところを「にゃんにゃんにゃにゃーん」と間違えて覚えている若菜。「そこは、“わん“だろ。犬なんだから。なんべん言ったらわかるんだよ」と毎回、律はツッコむが、若菜は“よくわからない“といった顔で笑う。この言動には、律の“こうあるべき“という頑なな心を垣間見ることができる。それは、捨て子なんだから役に立たないと生きている意味がない、と自分を縛り付けている鎖にも通じるもの。だが、第8話では、この後に「ま、いっか。お前はそのままで」と頬を緩める律がいた。ずっと縛られ続けてきたこだわりから解かれたような、自分自身を許すことができたような、そんな優しさを感じ取ることができた。

 自分では返せているとは思えなくても、相手が受け取ってくれているものがある。それゆえに、明確なメリットがなくても、人と人は愛し愛される存在になれるのだ。律は、若菜や魚(大智)、そして凜華とのふれあいを通じて、そんな新しい愛の形を知り始めたのかもしれない。それゆえに、酔いつぶれた凜華を背負い「どこに帰りたい?」と聞くこともできたのではないか。「あなたのおうちはどこですか?」とは、実際の家ではなく、自分のいたい場所。愛を感じる場所。凜華が迷いなく「ここがいい。ここが一番いい」と、律の背中だと答えるシーンは秀逸だった。だが「ずっとここいる、明日もあさってもずっと」という言葉に、律の心を思うと、胸がギュッと締め付けられるようだ。嬉しいのに、寂しさが募る。楽しい時間ほど切なく、愛しいほどいつか必ずくる終わりに虚しくなる。

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