『菊地成孔の欧米休憩タイム』“まえがき”全文公開:〈シン・君の名は〉或は今年は1955年である

『菊地成孔の欧米休憩タイム』(blueprint)

 菊地成孔の新刊『菊地成孔の欧米休憩タイム』が、株式会社blueprintより、8月10日(木)に発行される。

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 英語圏(欧米国)以外、特にアジア圏の映画を対象としたリアルサウンド映画部の連載レビュー「菊地成孔の欧米休憩タイム〜アルファヴェットを使わない国々の映画批評〜」の中から記事を厳選し、新たに加筆・修正の上で収録した同書。同連載の番外編として掲載され、Yahoo!ニュースなどのネットメディアやSNSで大きな議論を巻き起こした『ラ・ラ・ランド』評のほか、有料ブログマガジンの連載批評「TSUTAYAをやっつけろ」や、長らく書籍化されなかった伝説の連載コラム「都市の同一性障害」などを収録している。

 リアルサウンド映画部では今回、発売に先がけて、『君の名は。』と『シン・ゴジラ』を同時に論じた“まえがき”を、全文掲載する。

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 今年(2017年)の3月末に、東浩紀氏と佐々木敦氏が主宰する「ゲンロン佐々木敦批評再生塾」第2期最終講評会のゲスト審査員として、高橋源一郎氏と一緒に卓に着いた。この様子はYoutubeで現在でも全貌を観ることが出来る。

 そもそも私は審査など嫌いだ。「おいおい今から映画批評の本が始まるんじゃねえのかよ先生?」と仰る御仁もいらっしゃるだろうが、批評家と審査員は全く別だ。厳密に言えば、私は分析と評価、つまり批評は好きなので、音楽をやっていない時間は、年がら年中やっている。チェーンスモーカーに於ける喫煙の様なものだ。

 今、目の前にSEVEN & i PREMIUMの「沖縄県産の黒糖を使用した黒糖かりんとう」が置いてあるが、「黒糖を使用した黒糖かりんとう」という部分の、「黒糖」の二重/反復性、その、ヒップホップ的とも言うべきリズム分析をし、修辞的な分析をし、その事の決定は、何人分の行動と責任なのかを分析する。分析結果は評価機関に回される。評価結果を論評の形で評論する。結果はこうだ。「〈沖縄産黒糖〉のブランド力と実質の総合は、ほぼ〈イベリコ豚〉に等しい。然らば、イベリコ豚のローストに黒糖を使った甘いソースを絡めたらどうだろうか? という問題ではない」こんなに楽しく、無意味な遊戯があるか。

 それに比べると、〈審査〉などというのは、権威主義に身も心も売り渡した男根的な病人とまでは言わないが、基本的に、劣者を潰す攻撃性を懐に抱いた者の行為である。テクノロジーの様なものだ。古代人の矢尻の発明は、テロ行為の誕生も同時に意味する。イベリコ豚に聞いてみるがいい。いきなり物陰から矢で撃たれたら、ドングリに夢中だとか、交尾中だとか、そういう時間でなくとも、充分気をつけていても逃げようがない。本当に恐ろしい。動画をご覧頂ければ解る。私は東氏をガチで尊敬しているが、恐ろしくてたまらない。素人をボロカスに審査するのだから。ボロカスに審査するというのは、現代ネット社会ならずとも、素人側の特権では無いだろうか? 私はてっきりそう信じていた(素人が毎秒、私の営為を逐一ボロカスに審査するようになって何十年か経つので)。東氏というのは、SM行為中、奴隷と主人が逆転する瞬間を凍結させた様な人物であると言える。

 私は(私の直接交渉者である佐々木敦氏に対して)「いやいやいや、批評の審査なんて俺無理っす。オレ、音楽でも、絶対になんかの審査員とかやらないんだから」とけんもほろろに断り、以下、1年間、食い下がり続けた敦に「無理っす」「あっちゃん、無理だって」「つうかやるわけねえじゃん。バカじゃないの」「やーらーなーいって!!」「やらないよ……」「わかった、何をすればいいわけ?」という過程を踏んで、捕縛された兎の様にグッタリと承諾し、1年後にフラフラなままゲンロンカフェに向かった。読者の皆様に於かれては、一般的に「のほほんとした善人」ぐらいのイメージを激安価格で押し付けて来る佐々木敦の、ヤクザ並みの恐ろしさについて、予感だけでも抱いて頂ければ充分である。

 いかな稀代の思想家であり作家であり発言者である東氏の下に集う者達とはいえ、素人の5万字(これは、推測になるが、「批評行為」を「再生するため」に、「ネットの戯言とは違うのだ」という側面もクリアせねばならず、敢えて鬼の東氏が素人に課したマッシヴであろう)以上をデフォルトとした「論文」を、8つも9つも読まされるだけで、うんざりを通り越し、乖離的な無痛感覚に襲われるに違いない。と私は予想していた。

 ところが、現実はゲンロンより奇なり。私はペリカン文書にアクセスしてしまったダービー・ショーのように青ざめる事に成った。

〈シン・君の名は〉或は今年は1955年である まえがきにかえて

 果たしてそこにある、「再生」されるべく書かれた「批評」のほとんどが、『シン・ゴジラ』(2016年/庵野秀明総監督、樋口真嗣監督)と『君の名は。』(2016年/新海誠)と、3/11東日本大震災を三題噺として批評を展開しようという目的によって書かれていたからである。

「ペリカン文書にアクセスしてしまった」だの「果たしてそれは」だの言って、あたかもこの講評会が、論文を読み始める事から始まるイベントであるかの様に書いてしまったが、実際は数ヶ月前から論文は揃っており、何度でもはっきり書くが、嫌々審査員などという自分に向かない仕事に手をつけた私は、当日まで一切の論文を読まずに臨んだのである。この許し難い職務怠慢については誰にも謝罪しない。何も問題が起きなかったどころか、良い効果しか生まなかったからだ。

 冒頭にも書いてあるが、最終講評会は今年(2017年)の3月である。この三題噺が量産される事には何の驚きも無い。

 完成から公開に至ったタイミングこそ16年であるが、プロジェクトとしては震災の翌年である12年から立ち上がっていた『シン・ゴジラ』は、メタファーだの象徴だの言うのもアホらしいほど、ベッタベタに東日本大震災と直結していながらにして、強大なフェティシズムの壮麗なまでの伽藍により、昨年のテラヒットとなった。

 同じく『君の名は。』も、震災ベッタベタとまでは言わないが、「外部からの強大な力(ここでは隕石)による破滅の危機」を作中の大きなモティーフとしており、強大なフェティシズムの、壮麗なまでの伽藍により、同じく昨年のテラヒット映画となった。

 要するに、これらを三題噺として繋げるというのは、朝食と昼食と夕食(或いは「長男、次男、三男」)を三題噺にして繋げるのと似て、非常に難しい。というか、原理的に無理で(何故なら、三題噺、というものは「各々無関係だと思われる3者」を巧みに結びつける知的なスキルだからである)、いざ書こうとしたら、あらゆるスキルは空を切り、よしんば力任せに結び付けたとしても、それは「食パンサンド」(パンとパンの間に、パンを挟んだサンドイッチ)のようなものしか出来上がらない。

 私は素人はバカだなどとは言わない(東氏は、容赦なく言うが)。素人はシンプルに素人である。一生懸命というに吝かでない情熱で、5万字以上の食パンサンドをこしらえて、東浩紀と佐々木敦と菊地成孔と高橋源一郎に提出し、講評を乞うのだから。プロがこんな事をしたら、先ずは東氏に「あなたのやっている事は素人同然なんですよね。」と、あの素晴らしい滑舌で言われるだろう。

 私は、分析家、評論家としてどうしようと考えた。しかし、前述のとおり、事態とは出会い頭、反応は即興的である。自分の最初のコメントで「シン災、シン・ゴジラ、シン海誠じゃ、シンシンシンで三球三振でしょう。そんなの昭和ではぜんぜん珍しくない。わたしにとって三神は、タイガー・ジェット・シン、シン自由クラブ、シン国立演芸場だ」ぐらいまでは言えた記憶があるが、これではスキルフルにフロウする、イルな評論と言うには画竜点睛を欠く。

「ああ、こう言っていけばよかった」といった事後の悔恨は、こうした現場の為にあるようなものだ。それが拙分のタイトルである。

『君の名は』は、1952年から1954年にかけてNHKラジオが放送したラジオドラマで、テラヒット作だ。余りの人気に、「オンエアの時間帯に、風呂屋が空になる」とまで言われ、後に、当時のメディア・エキスパンドとしてはマキシマムまで行われた(テレビドラマ化、映画化、舞台化)。

 映像化に際しても、岸恵子演じる主人公の、イスラム教徒の女性が被るヘジャブのようなマフラーの撒き方が「真知子巻き(主人公のフルネームは「浜口真知子」)」と呼ばれ、社会現象にまで成った。

 これが、『君の名は。』に於ける〈組紐〉にあたるのは言うまでもない。と書くとする、しかしこのままだと、『君の名は』に対して『君の名は。』を対置させる事に成って、読みづらいこと甚だしい、読点をいちいち打つもの面倒くさい。以下、新海誠監督のアニメ作品を『シン・君の名は』とする。勿論、『シン・君の名は』は、『君の名は』を原案とした最新版ではない。どう考えても無関係だ。しかしどちらも、「すれちがいドラマ」として一世を風靡した、という意味で、どう考えても無関係ではない。関係があるのだ。

 それは『シン・君の名は』単体では鮮烈には立ち上がっては来ない構造を有している。ネット等では、おそらく指摘し尽くされている筈だ。

 ラジオドラマ(オリジナル)版『君の名は』は、オンエア継続中に、急ピッチと言うに吝かでないメディア・エキスパンドが行われた。中でも、映画作品として最大のヒット作と成った『第三部』は、1954年4月27日公開。約」3億3000万の配給収入を上げ、1954年度の配給収入ランキング第1位を記録した(同じGW商戦に東宝が対抗馬として1日前の4月26日に公開したのが、かの『七人の侍』(黒澤明監督)である。結果は約2億6000万の配給収入でこの年の3位)。

 そして、同年の11月3日に『七人の侍』(黒澤明)と同じ東宝が制作/公開したのが、かの『ゴジラ』(本多猪四郎監督)である。配給収入は約1億5200万で、この年の8位。

 一応、表にする。

〈1954年の日本映画配給収入ランキング〉

1位 君の名は(約3億3000万)

(3位 七人の侍)

8位 ゴジラ(約1億5200万)

〈2016年日本映画興行収入ランキング〉

 1位 君の名は。(約249億4000万)

 2位 シン・ゴジラ(約82億5000万)

 洋画を導入すると、ランキング自体は若干動くが(1954年の『ゴジラ』はTPO10圏外へ。これは『ローマの休日』(1953年/ウィリアム・ワイラー)『砂漠は生きている』(1953年/ジェームズ・マルガー)『グレンミラー物語』(アンソニー・マン)等の強力な洋画と、まだまだ健在だった時代劇映画の数々によるもので、新参、というより、初の「特撮怪獣映画」が圏外に成るのは妥当も妥当である。一方、2016年は、洋邦あわせても『シン・ゴジラ』は3位にランクイン。因みに2位は『スターウォーズ/フォースの覚醒』(2015年/J・J・エイブラムス)で、これは『シン・七人の侍』でほぼほぼ良いのではないか?)、配給/興行収入の両者比率は1955年が約1対2の倍付け、2016年が約1対3の3倍付けである。

 さらに補助線を引くならば、『君の名は』は織井茂子の歌唱、菊田一夫の作詞、古関裕而の作曲による主題歌「君の名は」が国民的な大ヒットを記録し、『シン・君の名は』に於けるRADWIMPSの「前前前世」に関しては説明を要しまい。また、『君の名は』は、ラジオ版の階段から、毎回冒頭がナレーションで始まる。

「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」という名文句は、『シン・君の名は』の強烈な掴みである、「朝、目が覚めると、なぜか泣いている。そういうことが、時々ある。」「見ていたはずの夢は、いつも思い出せない」以下の有名なユニゾンナレーションをAとしたQの様だ。62年間でQとAが逆転しているのである。まあ、全体的に、そういう映画だ。

 どうだろうか?『君の名は。』を『シン・君の名は』とする事のアクロバットは、顰蹙を買ったり、オーヴァーアクトの誹りを受けるほどのものだろうか?

 私は、『シン・ゴジラ』と『シン・君の名は』はニコイチとしてよいと思う(重ね重ね『シン撃の巨人』は残念だった)。どちらも極めて優れたオーヴァーグラウンドスタイルのフェティッシュ映画(「萌え」というジャーゴンの意味を、いまいち掴みかねているので、古典的な用語にさせて頂くけれども)であるが、ではフェチ映画のオーヴァーグラウンダー感と言えば、例えばフェチ映画アンダーグラウンダーの帝王であるケネス・アンガーの『スコピオ・ライジング』(1963年)等と比べると、フェチの大伽藍でありながらも、ヤオイ感、AV感が極めて低いか或いは絶無で、フェチそのものを総て外したと仮定しても(原理的には外させない。仮説の上での話)、充分成り立つだけの物語の運行力がある。

 この力(物語による、観客を誘導する運行力)を基本価値とし、フェティッシュを剰余価値とするのは絶対的ではなく、少なくとも我が国に於いては、好景気で、映画館に於ける劇映画の鑑賞料金の価格が低額化している時代には、物語の運行力の株価は下がる傾向がある(嘘だと思ったら、『ときめきに死す』(1984年)『そろばんずく』(1986年)『キッチン』(1989年)から『失楽園』(1997年)『模倣犯』(2002年)『椿三十郎』(2007年)と続く森田芳光フィルモグラフィーを追ってみると良い。因に私は、一度だけ岩井俊二監督と酒席で話した事があるが、『ときめきに死す』が如何に素晴らしいかという話題だけで2時間ほど潰してしまった同い年のバブル組即ち、物語の価値インフレ世代である)。

『シン・ゴジラ』の「余りにもちゃんとした脚本」ぶりは、もしも、だが、「だからこれがヱヴァンゲリヲンで壊れた自分の自己治癒なんですよ」と言われた場合、「ああ、そうですね。なるほど。その通りだなあ」と誰もが首肯せざるを得ないほど図式的であるが故に、かなり冷や冷やする(一般的に自己治癒というのはそんなに図式的に解り易い物ではないからだ)が、それはさておき、最初に登場するゴジラ(幼形?)が、往年の「ミニラ」に相当するであろう事、ゴジラ上陸から凍結までの運行軌跡、残された重要資料がデータではなく紙である理由、そして凍結に於ける作戦内容、その内容が実は開始20分ほどで予め示されており、そのまま原爆投下の危機とせめぎあう、という工夫まで、10秒の無駄もなくほぼほぼ完璧であるが、それがそう知覚出来ないほどのフェティッシュに満ち満ちている。

 また、『シン・君の名は』の脚本は、入れ替わりと時間のズレ、そして、元も子もない程度に、夢であること、が中枢に組み込まれており、「マトリックス」シリーズは愚か、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズですら「これはアンフェアな気がする」という、SFに乗れない体質の私からすれば、排中律も同一律も矛盾律も一掃された世界の何でもアリで、悪いが破綻しているとしか思えないんだけど、な脚本なのだが、だから物語を運行しないかと言えば、すげえ運行している。それは、虚数というか、絵と声が動かしているというか、ぐるっと一回転して、フェティッシュそれ自体が物語を運行している。つまり超ヤオイは物語化するといった、ありきたりな想像力を堂々と現実にしているのだけれども、それがそう知覚出来ないほどのフェティッシュに満ち満ちている。

 両作のどこがどうフェティッシュかという羅列は、胸焼けした腹に胃散を飲ませて、更に食い物を詰め込む様なものだろう。ジェンダーが液状化し、「怪獣映画→男子のオモチャ」「恋愛萌えアニメ→女の子のオモチャ」などといった昭和の線引きがとっくになくなり、「物語が成立した世界の中で、直接性徴から遠いフェチの詰め合わせフルCGと実写(『シン・ゴジラ』)」と「物語が破綻している世界の中で、直接性徴に近いフェチの詰め合わせアニメ(『シン・君の名は』)」という、言わばAB面であって、この二作を併映すれば、我が国の現在のフェティッシュ、特に、安全圏の物はほぼ総て網羅されてしまうだろう。震災は敗戦ではない。厳密にいえば、震災を敗戦にメタファーする限りにおいて、震災は対象化さえされていない。震災は開戦かも知れず、日常かも知れず、勝利ですらあるかもしれないのだ。ゲンロンの批評再生塾生がこんな簡単な事すら見逃したのは、最優秀としか言い様がない(一行指摘になるが、両作の優秀さは、安易なノスタルジーとの癒着を決然と避けている点である)フェティシズムの大伽藍に官能/感応してしまった、つまり、萌え狂った幸福な観客だったからだ。本書は、私の二冊目の映画批評書である。私は幸福な観客ではない。

1955年7月12日 菊地成孔

■商品情報
『菊地成孔の欧米休憩タイム』

著者:菊地成孔

価格:2,000円(税抜き)

発売日:8月10日

判型:四六版

発行:株式会社blueprint

発売:垣内出版株式会社

【内容紹介】
映画メディア「RealSound 映画部」の人気連載「菊地成孔の欧米休憩タイム~アルファヴェットを使わない国々の映画批評~」を一挙総括! 公開後に Yahoo!ニュースなどで大きな議論を巻き起こした『ラ・ラ・ランド』評はもちろん、『シン・ゴジラ』『君の名は。』などヒット作の書き下ろし評論、ほか単行本未収録の原稿を多数収録。 “英語圏(欧米国)以外の映画を中心に評論する”というテーマのもと、菊地成孔が独自の角度から鋭く切り込んでいく、まったく新しい映画評論集。

【著者について】
1963年生まれ。サックス奏者。音楽界では、ミュージシャンを基軸として、映像作品の音楽監督、大学の講師など多岐にわたって活動。文筆家、コラムニスト、批評家など、言論界でも名を馳せる多作家。ファッションや食文化にも造詣が深い。自身が DJを務めるラジオ番組『菊地成孔の粋な夜電波』が放送中。

【目次】

<シン・君の名は>或は今年は1955年である/まえがきにかえて

第1章 欧米休憩タイム

『黒衣の刺客』/『ロマンス』/『木屋町 DARUMA』/『無頼漢 渇いた罪』/『ハッピーアワー』/『ビューティー・インサイド』 /『セーラー服と機関銃 -卒業-』 /『インサイダーズ/内部者たち』 /『山河ノスタルジア』 /『アイアムアヒーロー』/『ひと夏のファンタジア』/『ケンとカズ』/『暗殺』/『隻眼の虎』/『溺れるナイフ』/『ラ・ラ・ランド』 /『ラ・ラ・ランド』追補 /『お嬢さん』

第2章 TSUTAYAをやっつけろ!

『死刑台のエレベーター』×2/『ディーヴァ』/『フライドドラコンフィッシュ』/『イヴのすべて』/『エージェントゾーハン』/『軽蔑』/『アメリカの夜』/ヒッチコック全作品(前後編)

第3章
『ひと夏のファンタジア』ハン・トンヒョン氏と対談 /ホン・サンス『次の朝は、他人』・同一性障害という美/ROCKS 都市の同一性障害 第1回「新宿とパリ」/ROCKS 都市の同一性障害 第2回「新宿とニューヨーク」/ROCKS 都市の同一性障害 第3回「新宿とソウル」/「K-HIPHOP」とワタシの出会いとその後の関係について

あとがき

■イベント情報
『「シネマの大義 廣瀬純映画論集」(フィルムアート社)刊行記念』
2017年8月10日(木)
会場:東京都 青山ブックセンター本店 大教室
出演:廣瀬純、菊地成孔
料金:1,350円
イベント詳細はこちら→http://www.aoyamabc.jp/event/lacausecinematographique/

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