菊地成孔の『シグナル』評:韓国TVドラマ『シグナル』/『君の名は。』をご覧になった方々に伺いたい。ストーリー隈なく全部わかりましたか?

菊地成孔の『シグナル』評

 未だに韓流ドラマを『冬のソナタ』みたいなもんだろうと思っている御仁はおられまい。しかしだ

 2016年というのは、『シン・ゴジラ』と『君の名は。』がテラヒット作となり、両作とも(特に『シン・ゴジラ』は)東日本大震災とのイメージ的な共振関係を持ったが故に、この3者を三題噺的に結びつけて語る者が多かった。YouTubeで全貌が観れるが、筆者は東浩紀氏が主宰するゲンロンの「批評 再生塾」の最優秀批評文を決定する審査員として出席したのだが、まあ、仕方ないと思いながらも頭は抱えた。

 「シン災」「シン・ゴジラ」「シン海誠」では、駄洒落も甚だしいが多くの塾生が三球三シンに切って落とされてしまった。三題噺というのは、一見無関係な三つの題材をアクロバティックに結びつける芸だが、前述の通りこの三者は、事の善し悪しは別として、強く癒着的だ。関係の強いものを「三題噺」の手法で結びつけたところで、パンにパンを挟んだパンドイッチ、つまりただのパンの塊みたいな物しか出来はしない。三球三シンで1アウトである。

 童貞感覚あふれる塾生たちは、3者を並べて語る事に興奮しきっており、それはつまり、誤解を恐れずに言えば、東日本大震災ですら、彼等を「萌えさせて」しまい、批評に不可欠な冷静さを奪ってしまったのである。

 当連載はご存知のように日韓の映画批評を中心に進んでいるが、今回初めて「韓ドラ」つまり、大韓民国のテレビドラマを採り上げることになった。タイトルは『シグナル』。これは韓国語ではなく英語の、あのsignalの事だが、現在のところ、大韓民国のテレビドラマとしては、テラヒットとまでは行かないが、権威あるペクサンイエースルテサン(百想芸術大賞)で主演女優賞、作品賞、脚本賞を、他の様々なアワードでも主演男優賞を筆頭に数多くの賞を受賞し、大韓民国のケーブルテレビでもドラマ歴代視聴率の第三位に輝いている。「ケーブル」とはいえ、日本とは比べものにならぬほどテレビドラマの需要とクオリティが高い(筆者の無根拠な査定では、日本の70年代に匹敵すると思う)大韓民国で、このプライズはとてつもないものだ。制作は『応答せよ』シリーズの大成功によって、ケーブルテレビ界のトップに躍り出たtvN。

 筆者の大韓民国のカルチャー消費量は、職業柄音楽がトップであるのは致し方ないとして、僅差で映画を追い越し、テレビドラマを観ている(ほぼ年間、観続けている)、いち韓ドラペン(ペン=ファン)であるが、いかに現在の韓流カルチャーの紹介者たち(と、共犯関係にあるペンたち)が、何でもかんでも胸きゅんラブコメ売りしないと気が済まないという(とんでもないシリアスでハイクオリティな、脱税者と詐欺師たちの激烈な知的戦争を描いた名作クライムサスペンス『第38師機動隊』の邦題が『元カレは天才詐欺師❤~38師機動隊~』といった事態は日常的である)、牧歌的というか地獄というか、そういう状況であろうと、「第1章。大韓民国のテレビドラマとは」等と構えては、軽く単行本が1冊になってしまう。当連載は、サブカルの蛸壺化に些かでも揺さぶりをかけるべく継続されているので、先ずは何より、本作をご覧になって頂きたく筆を進める(というより、『大丈夫、愛だ』と『密会』を必ず観ていただきたいが。バージンの方はこの二作で人生が変わるので)。

 特に『君の名は。』をご覧になった方には。

 2016年は、シンシンシンシン言ってないでこの二作を並べる年である(無理だと思うが)

 何故なら、二作とも同じタブーに手を染め、ハリウッド式のエンタメ脚本術からの脱却にトライしているからである。

 それは、タイムリープ、さらに言えば、タイムリープものの最大タブーだった「過去を変え、未来(=現在)に影響を及ぼすこと」を、果敢に実行し、それによって生じる、劇作上の根本的な破綻を堂々と晒すことで、視聴者の信を問い、結果として両作ともテラヒットになっているからだ。

『君の名は。』(c)2016「君の名は。」製作委員会

 『君の名は。』は、他の自作でも予行演習的に多元宇宙に関しての追求を行ってきた新海誠監督の、全方位的な完全実行として、タイムリープ、ボディ・サブスティテュート、夢の中での連結といった「リアリティへの脱構築全部のせ=青春と恋の乖離感覚の充満」ぶりに関する評価はここではせず、<テラヒットの根拠の数10%はストーリーが理解できなかったので(しかし、萌え狂ったので)、もう一度見て確認する(ストーリーの生合成も、萌え記号も)という、ダブルバイディングなリピーターが量産されたからではないかと思う>という筆者の予測のみに留め、流れを『シグナル』に戻す。

 “奇跡の脚本”と称されたキム・ウニの脚本は、何せネタバレしてしまっては台無しになってしまう、という性質上、基礎設定だけ書く。それは「警察と政府の癒着という巨悪の構造に対峙し、15年前に謀殺された刑事のウォーキートーキーが、現在と繋がる」というものだ。

 現在に於いて、廃棄処分になるギリギリのところで、何故か勝手に鳴りだしたウォーキートーキーを手にするのは、プロファイラーの青年で、彼と、謀殺された刑事の後輩である女性刑事が副主役なのだが、とにかく過去に死んでいる刑事と、現在生きているプロファイラーは、ウォーキートーキーで話すことができる。そして、プロファイラーは、現在では未解決の事件に関して、刑事に情報を流すことで、つまり過去に指令を出し、現在では未解決になっている事件を、面白いように解決して行くのである。

 これはつまり「やってはいけないこと」の連続が実行される事になる。何せ、後輩の女性刑事なんて、現在の事件の中で一回死ぬのである(「死にかける」とかではない、確実に死亡する)、だが死なせたくないので、過去に指令を出し、彼女が死ぬ直前から未来=現在を変え、なんと彼女は生き返る、というか、「別の現在では生きている」としか言えない状態で、そもそも死んでない態で(これは、世界全体が変わっているので、世界自体が納得している=登場人物の全員が当然の事実として受け入れていることで、驚いているのはプロファイラーと刑事の二人だけなのだが、これについて「何故そうなのか?」という説明はない)劇中に登場し続ける。

 「え?ネタバレに気をつけるんじゃないの?」という御仁も多かろう。驚くなかれ、何もかもが驚異的なこのドラマは、この程度はネタバレのうちに入らぬほどのアクロバットが連発されるのである。

 結論から言うと、あくまで筆者は。とするが、結婚詐欺、もしくはオレオレ詐欺にあった気分だ。結婚詐欺とオレオレ詐欺が面倒なのは、前者は長期間にわたって、後者はほぼ一瞬で、という差こそあれ、被害者はどちらも、結末寸前までは夢を与えられて幸福であり、何度でも同じ手口に引っかかってしまう、という点であろう(やや脱線するならば、木島かなえ事件の真の啓示力は、デブ専ブス専だとか床上手申告だとかいった下品な話ではなく、「ひょっとしたら被害者は、幸福に死んだのではないか?」という、抱いてはいけない考えを突きつけてくる点であろう)。

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