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小野寺系の『メアリと魔女の花』評:“ジブリの精神”は本当に受け継がれたのか?

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「この映画はいつ面白くなるのか」

 例えば、メアリが手から落としたものを家政婦がキャッチしたシーンを思い出してほしい。また、メアリが落ち葉のかごをかぶるシーンや、魔法大学の用務員がくどくど説教をする場面を思い返してほしい。私は一瞬、意味がよく分からず戸惑ってしまったのだが、よくよく考えたら、これらはどうやら性格の紹介とともに、ユーモアを発揮しようとしている箇所らしいのだ。見ている側が、「おそらくこれはギャグなんだろう」と、曖昧な表現の意味を推測しなければならないくらい、演出が機能していない。高畑・宮崎監督はもとより、一定水準以上の製作体制を持つ商業作品のなかにおいて、このような伝わりづらい演出があるというのは稀(まれ)だ。

 不可解な人物描写も多い。例えば、誤って花を折ってしまうメアリに、冷たい言葉を言い放つ庭師の老人というのは、一体何のために登場したのだろうか。学校が運営されているアリバイを作るために描かれているように見える魔法大学の学生たちは、完全に「動く背景」でしかないと感じるし、重要なキャラクターとして扱われている少年ピーターに至っては、「一見いじわるだけど、実は割といい奴」ということ以外には、どんな人間なのかがほとんどよく分からない状態で、かなり長い時間、画面に映り続ける。

 だがこれは、事前に十分予想できた事態である。何故なら、米林監督の、面白味のないファンタジーである『借りぐらしのアリエッティ』もそうだったし、無口な老人の存在意義などがいまいち希薄だった『思い出のマーニー』もそういう作品だったからだ。このユーモア感覚の欠如や、人物描写の拙さというのは、娯楽作品を手掛ける資質としては致命的ではないだろうか。今まで米林作品で笑えたシーンというのは、演出が失敗して不自然な描写になってしまっている箇所くらいなのだ。

 中途半端になっているのは、ユーモアだけではない。例えば、メアリがほうきにのって初めて空を飛んだとき、「あ、いよいよ面白くなるぞ」と、期待した次の瞬間には、とくに意外な展開も起こらず、粛々と次のシーンへ移行している。ギャグにしろアクションにしろ、面白くなりそうな予感が漂いだすと、すぐに失速してしまう。多くの娯楽的な映画作品では、考え抜いた様々なアイディアをアクションのなかに取り入れることで、観客の意識を作品世界に引き込み、楽しませようとする。米林監督は、公式サイトでも確認できるように、「『メアリと魔女の花』はドキドキとワクワクに満ちたエンターテインメント作品を目指します。」と明言している。本当にこれがそのような作品になっていると思うのであれば、あまりにも娯楽作品への理解が足りないのではないだろうか。

 私は、宮崎駿監督作『千と千尋の神隠し』が公開されたとき、大勢の子どもの観客が、千尋が階段を駆け下りるシーンで悲鳴を上げたり、ものすごく臭い神が現れる場面で大笑いしたりと、いままでの人生のなかで最もにぎやかな劇場体験をしたことを、印象深く覚えている。そのときに娯楽映画の、アニメーションの本当の力というものを実感したのだ。

 快・不快、そのどちらも与えられず、ただ淡々と進んでいくように感じられる米林作品を鑑賞しているとき、私は無味乾燥で荒涼とした空間に幽閉されているような感覚を覚える。

世界や人間に興味を持たない映画

 それゆえに、本作が「シンプルで見やすい」と擁護する意見もあるようだ。だが私は、「シンプルである」ことと、「中身がないこと」は全く違うように思える。優れた作品は、シンプルな構成であっても、その背景には、思想や趣味、信念や美学に裏打ちされた「何か」が存在している。シンプルな抽象絵画を見て、「俺にも描ける」と、似たような落書きをした絵に、本質的な価値が宿らないということと同じだ。

 スタジオジブリが設立される前、その原点になったのが、ともに東映動画を退社した高畑勲と宮崎駿が、それぞれ監督とレイアウトを担当したTVアニメ『アルプスの少女ハイジ』の成功だといわれる。高畑監督は「天の時、地の利、人の和が揃った作品」と表現し、宮崎駿は「パクさん(高畑監督)の最高傑作」と述べる。 ともにアニメーションづくりに携わって、試行錯誤しながら積み上げてきた全てが結実した、頂点といえる作品なのである。

 『アルプスの少女ハイジ』の驚くべきところは、作品をしっかりと見た者なら、目をつぶっても頭のなかで、アルムの山の斜面を登り、ハイジの住む小屋の周りを歩くことができるようなイメージを与えられるところだ。それは、宮崎駿の超人的な空間把握能力による、立体的な画面づくりによるところが大きい。そしてもうひとつは、高畑監督による「生活を描く」という、作品づくりにおけるこだわりと信念が、圧倒的なリアリティを、演技やデザインに至るまで、作品全体にみなぎらせているという点だ。このように、従来の多くのアニメ作品を凌駕する圧倒的な達成によって、とことんまで「質」にこだわっていこうとする精神が確立したのだ。

 そのような精神が『メアリと魔女の花』に欠如しているということは、本作の時代設定の曖昧さや、生活描写の乏しさを見ても分かる。田舎の風景や魔法大学の校舎にも、そこで人が生きているという実感があまりにも薄い。「生活を描くことが人を描くことだ」という高畑作品の哲学を抜きにして、ステンドグラスやレンガ塀など、テーマパークのハリボテのように外形的にステキに感じる画面づくりを志向することで、そこに精神が宿るだろうか。

 こだわりを作るのは、作り手の文化的な教養や、人間への興味である。それがあってキャラクターにも命が通ってくる。この人はどんな人なのか。普段はどんな生活をしていて何を考えているのか。それが詳細であるほど、そして作り手の人生の実感と理解が込められているほど、そこに奥行きが与えられ、立体感を獲得していく。英国の文化や歴史、英国人やその生活について興味が全くないと思われる本作からは、キャラクターたちがどんな人間なのかが伝わってこない。だから感情移入することができない。彼らがただ淡々と動いているのを、機械的に眺めることしかできない。

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