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『わたしは、ダニエル・ブレイク』が描く“貧困”は他人事ではないーーその普遍的なメッセージ

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 この物語は、日本の今、そして未来の姿かーー。現在公開中の映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』が、イギリス国民だけでなく、わたしたちの心にまで強く訴えかけるのはなぜか。わたしたちが劇中の人物たちとおなじように胸を痛めるのはなぜか。イギリスの福祉制度と貧困の実情を淡々と切り取った本作が我々日本人に与える意味は大きく、またイギリス国民とは出自や環境が必ずしも同じであるとは言えない人々にそのような思いを抱かせるのは、大きな理由がある。

 『わたしは、ダニエル・ブレイク』が、第69回カンヌ国際映画祭でパルムドールに輝いた。本作を手がけ、社会派としても知られるケン・ローチ監督にとって、これは『麦の穂をゆらす風』に次ぐ2度目の受賞となる。物語が焦点を置くのは、愛する妻に先立たれ身寄りのない59歳のダニエル・ブレイクと、幼い2人の子供を抱えたシングルマザーのケイティが、適切な援助を求め、複雑な福祉制度と理不尽な職員による対応に翻弄されながらも、支え合って懸命に生きる姿だ。

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 前作の『ジミー、野を駆ける伝説』の際に引退宣言をしたローチ監督だが、今回それを撤回してまで打ち立てたテーマは、「イギリスの福祉制度と貧困の実情」という、これだけ聞いても日本に住む我々にとっては馴染みのないものかもしれない。

 しかしながら、社会的なテーマを携えつつも暴力や薬物、過激な性描写を使わず、また貧困に喘ぐ様子を全面的におしつけるのではなく、貧しさの中に優しさを彼らの生活に挟み込んで描く手法が、胸を打つ。中でもダニエルとケイティが食料の配給を求めフードバンクに立ち寄るシーンが静かに琴線に触れた。今まで子供の前では空腹の様子を微塵も見せなかったケイティだが、食べ物の陳列を前にし、反射的に目の前の缶詰をこじ開けてしまい、空腹のあまりその場で中身を必死に手でむさぼり、こらえる余裕もなく涙を流しながら、自己を恥じ、謝罪を口にし、それでも彼女は涙はおろか、食料を口に運ぶ手でさえも止めることができない。ダニエルは、優しく、恥ずかしいことではない、と言って彼女の背中を撫でるのだ。

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 日本に置き換えても他人事とは思えない、とても印象深いシーンがある。ダニエルは心臓病を患い、医師から労働を止められているにも関わらず、国から援助を受けるためには求職活動をしなくてはいけなかった。近隣に履歴書を手渡して回るダニエルのもと、採用を伝えるための1本の電話が鳴る。ダニエルは、病気で働けないから辞退する、と伝えると、電話主は、じゃあなぜ就職活動をしたんだ、と訊く。給付を受けるためだ、と彼は正直に言った。もちろん事情を知らなければそのような疑問を抱くのは当然だろう。しかし、電話主がダニエルに対して投げかけたのは、実直な人物だと思ったのに生活保護で生活しようなんて奴だとは思わなかった、という辛辣な言葉だった。

 本作は、私たちに普遍的な疑問を投げかける。それは、どうして弱い立場にあって立ち上がれない人々に手を差し伸べられないのかという純粋な疑問でありながら、またそれは突き刺すような鋭さを伴う刃を我々の胸に突き立てる。過激なシーンを一切取り入れず、彼らが助け合って暮らす姿を淡々と描いたことが、むしろ身近なものになり、まるで胸にしまい込まれた自分の過去の体験のひとつを取り出され、胸に押し付けられるような感覚を抱かせるのだ。

      

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