“少女性”と“不自由さ”から生まれる官能ーー姫乃たまが『お嬢さん』のフェティシズムを考える

姫乃たま『お嬢さん』評

 高校生の頃から片言フェチである私は、新宿の職安通りを抜けて焼き肉屋へ足を運び、アルバイトらしき韓国人の女の子から接客されるのを楽しみとしていました。急いているような口調と、「つ」が「ちゅ」に柔らかく変形する発音を聞くと、どうにもたまらない気持ちになるのです。

 慣れない言語を話す彼女と、彼女の言葉を聞き取れない度に思考が分断される私。その間には、その他多くのフェティッシュと同様に「不自由さ」があって、いつでも私を恍惚とさせました。

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 パク・チャヌク監督の最新作『お嬢さん』は、1939年の韓国を舞台に、韓国人役も日本人役も、韓国語ネイティヴの役者によって演じられ、韓国語と同じくらいの比率で日本語が登場し、しばしば聞き取れない日本語が飛び出しては、片言フェチ達をぞくぞくさせます。それだけで、ほかのことはもう何もいらないほどに、です。

 それでもストーリーは、子供が観たら自分を賢いと思い込んでしまうに違いない(星新一のショートショートを初めて読んだ時のように)ほど、明快な驚きに満ちていますし、美術セットも、映像が完璧な一枚絵の連続になるほど美しく豪奢なものでした。

 しかし、あらすじも含めたこれらのことは、すでに本サイトで菊地成孔さんが書いていますので、私は彼が書いた『男も女もはっきりと「抜けるし」』という一文を掘り下げようと思います。結論から言うのは品がないようですが、『お嬢さん』は男も女もはっきりと抜けます。(参考:菊地成孔の『お嬢さん』評:エログロと歌舞伎による、恐ろしいほどのエレガンスと緻密

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 本作の官能的なシーンは主に、5歳から屋敷を出たことがないお嬢さんと、彼女に仕える少女のような容姿の侍女ふたりによって織りなされます。そもそもこの映画は少女性が高くて、序盤から侍女の汚れた無邪気な足の裏や、お嬢さんのヘッドドレスをこっそり身につけている姿などが映し出されます。背伸びした衣類を内緒で身につけるのは、母親の口紅を勝手に使う少女と同じですが、5歳から屋敷を出たことがないお嬢さんもまた、少女そのものです。諸事情あってお嬢さんに仕えなければならない侍女と、諸事情あって屋敷を出られないお嬢さんは、どちらも不自由を抱えています。だからこそ、ふたりの肉体が触れあうシーンは官能的なのでしょう。彼女達は肌と肌を触れあわせる前に、むらさき色のキッチュな棒付きキャンディーを舐めます。ウラジーミル・ナボコフの『ロリータ』を思い出します。

 また印象的なシーンのひとつに、幼女が日本語で淫語を連発するところがあり、幼女がそんなものを朗読しなければならない環境下にいる不自由さと、演じている女の子が年齢的にやや舌足らずであり、例外なく韓国語ネイティヴであることの言語的不自由さが強烈に交錯しています。『お嬢さん』の官能は、少女性と不自由さ、ふたつの要素から発生しているようです。

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