荻野洋一の『バンコクナイツ』評:空族が描いた“桃源郷”は、未知の体験へ観客を誘う

荻野洋一の『バンコクナイツ』評

 いや、この音信不通ぶりこそ本作の真の主題であると、私は推測している。ここではもちろん書かないが、本作の結末はじつに皮肉たっぷりな、あたかも作者自身を刺す自嘲的なものとなっている。私はラストの数カットを見て、開いた口が塞がらなかった。作品それじたいによる作品批判とでも呼べばいいのか。映画は当初エキゾチズムとオリエンタリズムのふりをして観客を脱力させ、やがて天国行とも地獄行ともつかぬ一組の男女の行旅によって、まるで半島のごとく細長い伸縮を見せる。さらには男性オザワの(自分勝手ともとれる)不まじめな単独行動によっていよいよ作品本来の冷厳さ、熱帯の中の悪夢の冷感に触れることになる。

 口では不平ばかりだが現実認識のしっかりしたラックは、やはり大地との結びつき、家との結びつきから逃れることはできない。彼女の正統的に過ぎる恋愛観は、オザワには不要なものである。それを彼は、彼の優しさなのか冷淡さなのか口に出して表現しようとせず、旅の脱線および音信不通という形でしめした。これで終盤における彼女の殴打の理由が分かるだろう。

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 ラオスで知り合った活動家グループの誰かが口にする「桃源郷」という言葉。これほど柔らかい語感をあたえる単語もめったにないが、同時にこれほど人肌から遠い単語も、じつはないのである。「桃源郷」とは、峻厳たる山水の向こう側にひろがる美しくも、非人間的な光景である。それは「桃源郷」という言葉を発明した古代の中国人が早くも看破したように、人を遠ざけた先にのみ存在する止水明鏡の領域なのだ。日本の山梨県での2本の人間くさい傑作(『国道20号線』『サウダーヂ』)を踏み越え、異国に長期滞在してカメラを回すうち、彼らが垣間見たものは現代社会の果ての光景であると同時に、古くは六朝時代の詩人・陶淵明(紀元365-427)が著した『桃花源記』にあるような、決定的な隔絶の物語なのである。ラックにとっては「桃源郷」など、むしろ遠ざけるべき禁断の異郷に過ぎない。あなたは私を愛していたはずなのに、あっちの世界を、「桃源郷」的隔絶を選んだのね——やはり彼女がオザワを殴打するのは致し方のないことである。ここには人種間の隔たりよりも、男女間の隔たりよりも、もっと大きな宿縁の溝があるようである。

■荻野洋一
番組等映像作品の構成・演出業、映画評論家。WOWOW『リーガ・エスパニョーラ』の演出ほか、テレビ番組等を多数手がける。また、雑誌「NOBODY」「boidマガジン」「キネマ旬報」「映画芸術」「エスクァイア」「スタジオボイス」等に映画評論を寄稿。元「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」編集委員。1996年から2014年まで横浜国立大学で「映像論」講義を受け持った。現在、日本映画プロフェッショナル大賞の選考委員もつとめる。

■公開情報
『バンコクナイツ』
テアトル新宿ほか全国順次公開
監督:富田克也
脚本:相澤虎之助、富田克也
出演:スベンジャ・ポンコン、スナン・プーウィセット、チュティパー・ポンピアン、タンヤラット・コンプ ー、サリンヤー・ヨンサワット、伊藤仁、川瀬陽太、田我流、富田克也
製作:空族、FLYING PILLOW FILMS、トリクスタ、LES FILMS DE L'ETRANGER、BANGKOK PLANNING、LAO ART MEDIA
配給:空族
2016年/日本・フランス・タイ・ラオス/182分/DCP
(c)Bangkok Nites Partners 2016
公式サイト:www.bangkok-nites.asia

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