『この世界の片隅に』と『マイマイ新子』に共通する“狂気”の正体ーー片渕監督の特異な手法に迫る

『マイマイ新子』に見る、片渕須直のすごさ

狂気によって生み出される「千年の魔法」

 それにしても本作の主人公・新子は、彼らのような調査や研究を経ずして、なぜ軽やかに千年前の世界をそのまま想像することが可能なのだろうか。日本を代表する民俗学者、柳田国男は著作のなかで、いたずら少年だった時代の奇妙な体験を語っている。ある日、家の裏にある石の祠に近づき、大人に見つからないようにこっそり開けてみると、そこにきれいな珠が供えてあった。それを見た瞬間、不思議な気持ちに襲われ空を見上げてみると、昼間なのに、見えるはずのない数十の星ぼしをたしかに見たのだという。そのとき突然ヒヨドリの鳴き声がして、柳田少年は正気に戻った。そして、もしそのとき鳥が鳴かなかったら、そのまま気が変になっていたのかもしれないと述べている。

 文芸評論の第一人者である小林秀雄は、そのような狂気をはらんだ感受性こそが、柳田国男の民俗学研究を非凡なものにしているのだと語っている。そして小林秀雄自身も、やはり著作のなかで神秘的体験を披露している。比叡山の石垣を眺めているときに、ある鎌倉時代の書物のことばが、突然心に滲みわたるように理解できたのだという。小林はその体験をもって、「歴史を知るということは、“思い出す”ということだ。そこで自分が生きているように考えなければ本当の歴史を知ることにはならない」ということを主張している。本作の新子は、彼らと同じような、ある種の狂気や豊かな感受性を持って、「歴史を“思い出す”」ことに成功している。だからこそ新子は、千年前の少女と意識を通わせ、干渉し合えるのだろう。おそらくそれが、本作で語られる「千年の魔法」の正体である。

 だが、そのような奇跡が起こったとして、おそらくそれは人生のうちで限られた瞬間にしか訪れない出来事なのではないだろうか。誰にとっても得難い、そのような「魔法」を説得力を持って描くため、その境地に少しでも近づくため、片渕監督は実際に麦畑を歩いて思いをめぐらせ、また逆に時間をかけて綿密な調査をして、当時そこで生きていた人に話を聞くのである。常軌を逸する労力と時間をそこに投入した結果、何が起こったのか。

 平安時代と昭和30年を描いた、本作『マイマイ新子と千年の魔法』と、戦中を描いた『この世界の片隅に』に共通するのは、たぐいまれな「現実感」である。私はこの二作を観たとき、昔のことを描いているはずなのに、それが昔のことではなく、自分自身が昔にタイムスリップして「いま」のことを描いた作品を見ているのだと、たしかに錯覚してしまった。そのように感じた観客は少なくないだろう。その作品世界は、昔のものを昔のものとしてしか表現できない凡百のそれを明らかに圧倒している。たしかに「魔法」が生まれているのである。そして、作り手がそこに到達するためには、やはり狂気に身をまかせる覚悟が必要なはずである。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■公開情報
『マイマイ新子と千年の魔法』
指定劇場にてアンコール上映中
原作:高樹のぶ子(『マイマイ新子』マガジンハウス・新潮文庫刊)
監督・脚本:片渕須直
キャスト:福田麻由子、水沢奈子、森迫永依、本上まなみ
制作スタジオ:マッドハウス
(c)高樹のぶ子・マガジンハウス/「マイマイ新子」製作委員会
公式サイト:http://www.mai-mai.jp/

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