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浅野忠信演じる男はなぜ恐ろしいのか? 『淵に立つ』距離感のある芝居の凄み

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 観る者の心を終始揺さぶり続ける深田晃司監督の渾身作『淵に立つ』は、すでに国内外からの賞賛にもある通り、とにかく浅野忠信の存在が凄い。ある家族の中へ突然現れる浅野は、日本国旗を象徴するような白と赤の衣に包まれた悪魔のごとく、物語と我々をまさに淵へと追い込んでいく。もう「恐ろしい」の一言だが、それはなぜか。『淵に立つ』で見られる現象をもとに考えていきたい。

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 まず、浅野忠信には「距離」がある。『淵に立つ』の主軸となる家族には、これまでの深田晃司監督作品に欠かせない古舘寛治が父・夫、そしてその母・妻に筒井真理子、と卓越した演技力をもった俳優らが集っている。そこへ古舘の旧友・八坂演じる浅野がやって来て、あれよあれよという間に同じ家の中で暮らすようになる。以降、浅野は娘を加えた家族3人と会話をし、食事をし、オルガンを教え、徐々に打ち解けていくのだが、他の俳優らと芝居を交しながらも、その肉体的かつ心理的な距離感を変えることはない。ここでいう距離感とはシナリオ上のそれとは違い、浅野という俳優自身が作るもので、常に他者と絶妙な間合いをもって存在し続けるのだ。これはたとえ古舘に重い罵声を浴びせ、筒井の肉体を凶暴にむさぼるような感情的なシーンにおいても同様で、浅野演じる人物の本性がどんなものなのかまるでわからず、その困惑はそのまま恐ろしさに直結する。やはり浅野忠信という俳優は、他者とどのように距離感を作れば、緊張した状態にできるか知っている天才なのだ。それは役者間だけに限らず、監督にもカメラに対してもそう。つまり、映画そのものと絶好の距離を保つことができるということだ。

 続いて、浅野忠信は「自然さ」が恐ろしい。ここでの「自然さ」とは日常的な所作に近い演技という次元の話ではなく、どんな非日常的な役にもリアリティを与えられるということだ。『淵に立つ』での浅野は、基本的に敬語で会話する。シナリオ状態で考えれば、「小学生の娘に対しても敬語を使う奇妙な男」というのは変なキャラクターとして非常にわかりやすい。だが、いざ実際に浅野が演じるとその奇妙さがとてもナチュラルに感じられる。そこには、おかしいキャラクターを演じる際に発生しがちなあざとい匂いが一切無い。ただしこれは熟練した俳優ならば当然のスキルだろう。だがさらに『淵に立つ』で、浅野は奇妙さを推し進め、シワのない白ワイシャツを眠る時すら着ている。これは浅野自身からの提案だったそうだから凄い。あえて極端になることでリアリティを獲得し、単なるキャラクターの枠を超えた「人間」として自らを作り直すことが、浅野には可能なのだ。

      

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