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『淵に立つ』HARUHI&深田晃司監督、対談インタビュー

『淵に立つ』深田晃司×HARUHI対談 映画と音楽における制作スタンスの共通点と違いを語る

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 『歓待』『ほとりの朔子』の深田晃司監督と、浅野忠信のタッグで制作された映画『淵に立つ』が、本日10月8日より公開されている。本作は、第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門で審査員賞を受賞した人間ドラマ。郊外で金属加工工場を営み平穏な生活を送る夫婦のもとに、ある日、夫の知人で前科持ちの男が現われる。その男との奇妙な共同生活がきっかけとなり、夫婦の心の中に潜んでいた知られざる秘密が徐々に明らかになっていく模様を描く。リアルサウンド映画部では、本作で監督・脚本・編集を務めた深田晃司監督と、主題歌「Lullaby」を担当したHARUHIの対談を企画。二人には、映画と音楽における制作スタンスの共通点や相違点、そして本作に込めたメッセージを語ってもらった。

深田「やりたいことをやるスタンスが、結果的には長く作り続けることにつながる」

20161007-huchinitatu-s2-th-th.jpg【左から】HARUHI、深田晃司監督

ーー映画『淵に立つ』は、小さな町工場を営む夫婦と娘のもとに、夫の古い知人がいきなり現れるところから始まります。そのことによって家族の関係に変化が生じるわけですが、そこには深田監督自身の家族観も反映されているのでしょうか?

深田:そうですね。映画に登場する夫婦には、自分の両親の姿が一部反映されていると思っています。物心ついた頃から、両親の会話を聞いたことがなかったんです。たとえば車でファミリーレストランに食事に行くときも、運転席、助手席からそれぞれ子供には話しかけるんだけど、夫婦ふたりの会話はまったくないっていう。僕自身それがトラウマになっているわけではなくて、「両親も大変だったんだろうな」くらいの気持ちなんです。ただ、あまり無邪気にドラマや映画などで家族の理想というか、家族の絆を肯定的に描いたものが喧伝されると、それには違和感があるんですよね。そういう作品が悪意なくとも固定化された家族観を流布することそれ自体が、本来あるべき多様な家族像を抑圧しているんじゃないかと。それは『淵に立つ』という映画のメインテーマではないですが、家族を描くということに関しては、基本的にそういう思いがありました。カンヌ映画祭のときにル・モンド紙が自分のことを「憤怒する作家」と書いていたんですよ。日本映画における伝統的な家族観に対するカウンターに見えたのだとしたら、何かが伝わったんだと思います。

ーー生まれ育った国、環境に影響を受けないわけにはいかないですからね。それは当然、作風にも出て来るだろうし。音楽も同じではですよね?

HARUHI:そうですね。私は海外で暮らしていたことがあって、いまインターナショナルスクールに通っているのもそうだし。全部に影響を受けていると思います。

深田:海外の映画祭で映画作家と話していて感じるのは、国際性を持つ、インターナショナルになるというのは、自分の出自を忘れることではなくて、自分が生きていきた環境をちゃんと意識して、その土台のうえで世界をどう見られるか? ということなんですよね。よく「作家性」ということが言われますが、それは視点だと思っていて。僕の場合は日本人ですし、東京で生まれ育ったわけで、それを忘れたふりをしてありもしない国際人になろうとしても、本当の意味で国際性を持てない。それとはまた別に、過剰に日本人であることを装い、オリエンタリズムを強調するやり方もあるかもしれないけど、僕としてはそれもおもしろくないと思っていて。やはり自分が生きてきた歴史を踏まえて、そこから世界を見ることが重要なんですよね。

HARUHI:なるほど。私はたぶん日本人っぽくない日本人なんですよね、見た目も性格も。だからと言ってアメリカ人っぽいわけでもないんですけど、最近気付いたのは「自分がこれでOKと思えれば、それでいい」ということなんです。日本人っぽいか外国人っぽいかは、人の見方だから、それを気にしてもしょうがない。「ちょっと変わってる」と言われても「まあ、いいんじゃない?」っていう(笑)。

20161007-fuchi-th-th.jpg『淵に立つ』メインビジュアル

ーーその考え方は音楽性にも通じてるんですか?

HARUHI:そうですね。何かに合わせるのはあまり好きではないので。いま自分が本当に好きなことをやりたいし、もし辛いことや悲しいことがあれば、そのことを歌いたいなって。自分自身が嬉しいですからね、そのほうが。まだ17才なので、けっこう好きなようにやらせてもらっています(笑)。

深田:素晴らしいですね。自分が17才のときは、とてもそんなふうに考えられなかったです。

HARUHI:そんな(笑)。ただ、自分のやり方が正しいのかどうかは、いつも考えてますけどね。

ーー映画には興業という側面があって、エンターテインメント性を求められることも多いですよね。作家性の高い作品を撮り続けている深田監督は、そのバランスをどう捉えていますか?

深田:映画においてそのせめぎ合いは激しいですね。まず、映画というのは金がかかる芸術なんですよ。商業映画を撮れば、少なくても数千万、1億くらいは平気で飛んでいくし、その経済的なリスクを避けるために「有名な原作を使う」「人気のある芸能人を出演させる」といったことが起きるわけです。あとは「共感できるストーリー」とか「希望が持てるラストにしてほしい」ということも出てきがちですよね。たとえばヨーロッパや韓国などでは、公共の資金を入れることで経済的リスクを軽減して、映画の多様性を守るという仕組みがありますが、僕はそういった制度の貧弱な日本に生まれて日本で映画を撮っているので、いかにお金を集めながら、作り手としての自由の領域を守っていくかという取り組みが重要で。今回の『淵に立つ』はフランスと日本の合作映画ですが、それも私の立場で日本の市場で回収できる資本だけではクリエイティブにとって十分とは言えなかったからなんです。予算が少なければ、そのぶん、表現の自由の幅が狭まりますからね。特に映画の場合、撮影日数が減るとか、直接的な影響があるので。

ーー資本を集める制度、つまり、より自由に映画を制作するシステム作りは、これからの日本映画の課題ですよね。その制度が整っていないことも人気のある原作を使った映画ばかりが目立つ理由のひとつだし、いまのままでは映画作家が育たないのではという危惧もあります。

深田:世間が期待する表現というものもありますが、それに合わせていると、そのサイクルから抜け出すのが難しくなると思うんですよね。「いまは名前を売るために、流行の表現をやる。それは将来的に自分がやりたいことをやるためなんだ」という考え方もあるでしょうが、そこに乗っかっている限り、いつまで経っても表現の選択肢は増やせません。そうではなくて、自分のやりたい表現を続けながら、その支持者を増やしていくことが重要なんですよね。作りたいものを作るというわがままなスタンスを続けるためには、自分の観客を育てる必要もあると思います。その過程にいるという感じですね、いまは。

HARUHI:音楽も同じで、流行りに合わせた作品で周りに評価されたとしても、それが自分自身の表現として納得していなければ意味ないなって。

深田:やりたいことをやるというスタンスのほうが、結果的には長く作り続けることにつながると思います。そのためには良いものを作らないといけないし、当然、才能や努力も必要なんですが。ちょっといい話になりましたね(笑)。

HARUHI:こういう話が出来て嬉しいです(笑)。

      

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