映画『聲の形』がメジャーな作風となった理由ーー山田尚子監督は重いテーマにどう魔法をかけた?

映画『聲の形』、山田監督の作家性を読む

「人は変われない」という呪い

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 近年とくに、一部の作品に対し「障害者を感動の道具にしているのではないか」という指摘がなされるようになった。「難病による恋人や家族との別れ」や、「自分の障害と健気に闘う姿」などの要素を使い、「泣ける作品」として、涙を搾り取ろうとするだけの安易な態度の作品が一定数あるのは確かだ。

 ただ本作は、「聴覚障害」という特徴的な要素がクローズアップされていくのかと思いきや、じつはドラマの展開において、その要素はそれほど重要なものとしては扱われていない。ここで描かれる聴覚障害による苦悩やディスコミュニケーションは、他の障害だったり、性格や身体的特徴などに置き換えることも可能なはずである。本作は、障害者の特徴を実際より大きく扱うわけでも、また起き得る現実社会との摩擦を無視するわけでもなく、ヒロインがたまたま聴覚障害を持っているに過ぎないと思わせるほど、自然に描かれている。それよりも重視されているのは、本人の内面的特徴である。このようなバランスで作劇をするというのは、かなり画期的なことではないだろうか。

 むしろここで不自然なものとして取りざたされているのは、将也の精神的問題についてだ。彼は、「自責の念」から「自己嫌悪」を引き起こし、そこに自身が受けたいじめ体験が加わることによって、高校のクラスメートなど身の回りの他人が、いつでも自分の悪口を言っているのではないかと怯え、他人の顔をまっすぐ見れないようになってしまう。

 非常に面白いのが、将也の主観を通すと、クラスメートなど彼が恐怖している人物の顔全てに、「×」(バッテンマーク)が貼られているという演出だ。このマークは、人付き合いをする前から相手に対し、「自分に悪意がある」、「自分をあざけり笑っている」という「レッテル貼り」を事前に施すことによって、裏切られまいと過剰な自己防衛を講ずるようになってしまっている精神状態を意味している。このような「対人恐怖」の戯画化は、かなり分かりやすくリアリティのある見事な表現となっている。

 この恐怖の源泉は、彼の小学校時代の失敗体験である。その「自責の念」を克服することで「自己嫌悪」を払拭し、自分自身を信頼し自信を持たなければ、他人に立ち向かう勇気は得られない。もし彼が自分自身を許し、好きになることができたなら、この恐怖から逃れ得ることができるのである。それは一種の「呪い」とも言い換えることができる。

 将也に好意を寄せる、やはり小学生時代にいじめに加わっていた植野直花(うえの なおか)も、その「呪い」に巻き込まれている。彼女は、「西宮硝子さえいなければ、私たちは何の問題もなかった」と振り返る。確かにそうだったのかもしれない。だが、それは正確な表現ではない。西宮硝子という強情に誠意を示す存在が現れることで、彼ら小学校のクラスメートたちの、もともと持っていた醜い差別意識が、あぶり出されてしまったのである。西宮硝子は、まさに「硝子(ガラス)」のように、人の内面の顔を映し出す存在でもある。自分の醜さに気づいてしまった者は、自分を好きになることができなくなってしまう。彼らが「自分の内面を変化させる」ことができなければ、永遠にその呪いから逃れることはできない。それはあくまで、硝子ではなく自分自身の問題なのである。

山田尚子監督の最大の武器とは何か

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 それでは、本作の映画作品としての単体の価値について考えたい。京都アニメーション作品は、前述したような「萌えアニメ」の表現に長けており、その価値観によって支持を受けてきた部分が大きい。だが今回は、今までになく強力なテーマを持つ、問題作ともいえる原作を得たことで、ともすれば萌えを描くことを主眼に置いてしまいがちだった作画技術を、より広い観客に向けて利用できている。また、少々ドロドロになり過ぎてしまっていた原作の表現を、今までマイルドなふわふわした世界を描いてきた山田尚子監督によってソフトに描写され直したことで、より万人向けに洗練され、相乗的に完成度が高められていると感じる。

 山田尚子監督の演出的な特徴は、キャラクターの繊細な演技から生まれる場面的なリアリティと、実写風の抑制された画面の構成である。それは、登場するキャラクターと鑑賞者の間に明確な差異を与え、一種、突き放した冷徹さすら生じさせる。だが、その持ち味は、客観的なまなざしが必要であるはずの本作にふさわしい資質であったように思える。

 ただ、比較的シンプルな構成だった原作から、時系列の複雑な組み換えによって、原作未読の観客にとってドラマの推移が少々わかりにくくなっている部分もある。全体を通しピアノをはじくようなニュアンスによる劇伴が使用されているところは、おそらく製作者の意図に反して、全体が「ひとつの回想、思い出」のように見えるという効果を発揮してしまい、前に進みだそうとするテーマとは裏腹に、ノスタルジックで優し過ぎる印象を与えている。これは、山田監督の繊細さが、原作の迫真性を一部減じてしまっている点ではないかと思われる。

 しかし、山田尚子監督の最大の武器は、それらとはまた別にある。劇場作品『たまこラブストーリー』では、ある女子高生が「好きだ」とひとこと言われただけで、彼女を包み込む景色のすべてが光の粒子に置き変わり、それが水彩表現に変化していくという、アートアニメーションを用いた実験的演出がとられる。その瞬間、今までのリアリティによる抑制が一気に解かれ、作品全体に輝きを与えることになる。日本の商業的なアニメーションにおける文法から完全に離れた、手法的な解放が、物語自体の解放とも結びついているのである。

 この、ある体験によって「一瞬にして世界が輝きだす」という表現が、山田尚子監督の持つ作家性の核である。本作、映画『聲の形』が、ある「スペクタクル」をラストシーンに設定するという、原作からの改変は、まさに世界が主観的に切り替わる瞬間こそが自身の作家性であることに自覚があるからであろう。そこで描かれたのは、「呪いを解く魔法」であり、「人は変わることができる」というメッセージである。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■公開情報
映画『聲の形』
公開中
出演:入野自由(石田将也役)、早見沙織(西宮硝子役)、悠木碧(西宮結絃役)、小野賢章(永束友宏役)、金子有希(植野直花役)、石川由依(佐原みよこ役)、潘めぐみ(川井みき役)、豊永利行(真柴智役)、松岡茉優(石田将也役)
原作:「聲の形」大今良時(講談社コミックス刊)
監督:山田尚子
脚本:吉田玲子
キャラクターデザイン:西屋太志
美術監督:篠原睦雄
色彩設計:石田奈央美
設定:秋竹斉一
撮影監督:髙尾一也
音響監督:鶴岡陽太
音楽:牛尾憲輔
主題歌:aiko「恋をしたのは」
音楽制作:ポニーキャニオン
アニメーション制作:京都アニメーション
製作:映画聲の形製作委員会(京都アニメーション/ポニーキャニオン/朝日放送/クオラス/松竹/講談社)
配給:松竹
(c)大今良時・講談社/映画聲の形製作委員会
公式サイト:http://koenokatachi-movie.com

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