>  > “団地映画”としての『アスファルト』の魅力

フランスの“団地”を舞台にした、新たな群像劇ーー『アスファルト』が物語る日常の奇跡

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アスファルト
イザベル・ユペール
フランス
マイケル・ピット
ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ
洋画
牛津厚信
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 この不思議なタイトルのフランス映画は、ひんやりとした透明感に満ちていて、どことなくおかしくて、じんわりと優しい。まるで心の湖にひとつの小石を投じたかのように、その波紋は静かに、そしてささやかではあるが確実に、幸福感を広げていく。

 舞台は郊外にある古びた団地。敷地の端っこには重機や崩れかけたコンクリートが散見されるから、おそらく老朽化と住民の減少が相まって一部で取り壊しも始まっているのだろう。

 住民たちは壊れかけのエレベーターの交換費用の分担について話し合い、たった一人だけ支払いを渋った中年男性は、思いがけない運命のいたずらによって車椅子の生活を強いられることになる。別のフロアでは落ちぶれた女優と青年とが心を通わせ、また別の階ではアルジェリア系移民の女性のもとになぜか宇宙飛行士が舞い降りてくる。外から見れば似たような窓やベランダが並んでいる画一的な空間のように思える。しかしいざカメラが室内に入ると、多様な人々の暮らしや息遣いがそこには濃密に広がっているのである。

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 これを“団地映画”と呼ぶ向きもあるかもしれない。是枝弘和監督の『海よりもまだ深く』(16)や阪本順治監督の『団地』(16)など、このところ日本でも団地を題材とした映画が数多い。限られた敷地内において人々を効率的に、かつ経済的に住まわせることを目的とした団地は、舞台が日本であれ、フランスであれ、一つの時代やライフスタイルの象徴として根付いてきた。古くは小津安二郎の『お早よう』(59)や『秋刀魚の味』(62)などでも効果的に使われていたことが思い出される。

 仮にこれが活気あふれる団地であるならば、それはそのままダイナミズムの象徴ともなろう。が、場合によっては扉を閉ざし、互いのことを全く知らないまま、匿名性の中で生きることも可能といえば可能。つまり団地のどのような側面を切り取って見せるかによって、映画の語り口や描こうとするジャンルは大きく変わる。それゆえヒューマンドラマやサスペンス、それこそジャパニーズ・ホラーにだって団地はたびたび登場し幅広い表情を見せつけている。

 では、この『アスファルト』の場合はどうか。ここでサミュエル・ベンシェトリ監督が試みたアプローチがとても興味深い。そこではまるで任意に抽出したかのような3つのエピソードを交互に展開させ、2名×3、計6名の孤独な登場人物たちによってストーリーを織り成していく。強いて言うなら、団地映画と群像劇のミクスチャーがこの映画の特徴である。

 思えば、名作『グランド・ホテル』(32)によって群像劇の代表的な手法である“グランド・ホテル方式”が確立されたことは誰もが知るところ。多様な職業、出身、性別、年代、身の上を持った人々を同じ“まな板”に乗せてその人生を交錯させるのがこの手法の試みだったとするならば、同様の群像劇を“団地”において孤独と出会いの物語として炸裂させるという着想は、私の目にとても現代的なものとして映った。だってグローバル化が進むにつれて人々が孤独を深めていくという状況は確実にあるし、その状況を皮膚感覚として表現するのに個々の細胞が寄り集まったような団地という存在を用いるのは、まさに絶妙な業に思えたからだ。

 家族連れが住んでいてもおかしくない団地なのに、ここに登場する人々はなぜか皆が一人ぼっち。しかし、そんな心の隙間を埋めるように、どこからともなく誰かが迷い込んできて、そこで人生の迷子どうしの運命的な出会いが起こる。一人きりで完結するはずだった暮らしに、徐々に別の角度から光が注ぎ込み、いつしか相手はかけがえのない人となって、その人が笑ってくれれば、喜んでくれれば、何かを感じてくれればそれが自分の幸せだと感じるようになる。突拍子もない出会いもさることながら、彼らが変わっていく過程が穏やかで、おかしみに満ちているのも、本作のたまらない面白さと言えよう。

     
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