宮台真司の『シン・ゴジラ』評:同映画に勇気づけられる左右の愚昧さと、「破壊の享楽」の不完全性

宮台真司の『シン・ゴジラ』評

「自立できないなりの創意工夫」のファンタズム

 日米関係も然り。ゴジラの国連による捕獲が軍事的な機密の拡散に繋がることから東京への核攻撃を強硬しようとする米国政府に、日本政府は「NO」とは言えません。「宗主国の意向には逆らえない属国化した日本」という、今や誰もが熟知する現実が本作にも引き継がれています。だからこそ「英雄が登場して米国に逆らう」という可能性は最初から完全に遮断されています。

 しかし、米国に「NO」とは言えないかわりに、関係各国への根回しで米軍の核攻撃を引き延ばし、かわりに自国発案のゴジラ凍結作戦に米国の承認と援護を取り付けるに到ります。「主権国家として恥ずかしくない振舞い」から程遠いものの、「“所詮は傀儡国”にふさわしい国防」の仕方ではあります。米国の承認から見放されれば、日本の行政官僚制は迷走と暴走に陥りかねません。

 飽くまで「米国の承認」の枠内に留まる他ないとはいえ、政治家不在の日本で政治家の等価物として機能する米国の強いリーダーシップの下で、行政官僚制の力が結集されるのではなく、各省庁(の担当官)が各々の役目の中で互いに同調圧力をかけ合って困難を乗り越えるというのは、敗戦後、象徴天皇制の下での議院内閣制を採る日本が本来目指していた姿であったはずです。

 もちろん正確に言えば、米国によって「象徴天皇制の下での議院内閣制を採る日本が本来目指すべき方向性」として示されたものです。押しつけ云々とホザく間抜けが後を絶ちませんが、第一に、戦争に負ければ枠組を押しつけられるのは当たり前であり、第二に、戦勝国が承認する戦後体制を独力で創案する力を欠く以上「米国によって示される」以外の選択肢はありません。

 ここで賢明な観客はハタと膝を打つはずです。『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズに於ける碇ゲンドウ(父)と碇シンジ(息子)の関係は、米国と日本の関係の隠喩であったのか…と。いや、少なくとも現在の庵野秀明が、そのように自己(再)規定しているのは確かです。そう。本作は、「米国という父から永久に自立できないオタク少年たる日本」という設定を出発点にしています。

 但し、米国映画に頻見する「危急存亡の事態に陥った息子が、やっと父からの自立を果たす」物語ではなく、「父から自立できないオタクのヘタレ息子が、ヘタレなりの矜持と知恵で未曾有の危機を乗り越える」物語です。米国人が見たら抱腹絶倒の御都合主義ですが、それでもこの物語は現実ならぬファンタズムに過ぎません。それを示すのが石原さとみ扮する大統領特使です。

ファンタズムぶりを暴き出すアスカ・ラングレー

 日本人祖母を持つ大統領特使のキャラクターは、映画内で浮いていて、世評も散々です。人物造形(社交的なハシャギっぷり)はテレビ版『エヴァンゲリオン』に於ける惣流・アスカ・ラングレーを彷彿とさせ、アニメ的だから実写では浮きます。碇シンジに該当するのは誰か。日本国ないし日本的行政官僚制そのものです。ここに庵野おなじみのオイディプス構造が成立します。

 米国が父(碇ゲンドウ)。日本が息子(碇シンジ)。特使が父から遣わされた母。『エヴァンゲリオン』では、シンジ以外のエヴァ搭乗者(綾波レイとアスカ・ラングレー)は父から派遣された母です。その母の入れ知恵で息子は父の謀略から脱します。米国高官が「危機が日本でさえ成長させるのだな」と哄笑する場面もあります。本作はゴジラをシトとしたエヴァ続編なのです。

 ラスト。凍結作戦が成功し、主人公の官房副長官と大統領特使が、互いに国のリーダーとなろうと誓い合います。父を疎外した、母と子の結託。凍結はしたものの、処理しきれないゴジラが、ファルス(母のもう一つの欲望対象)の廃棄物化を暗示し、映画は幕を閉じます。そこでも、図式は『エヴァンゲリオン』のものがそのまま踏襲されます。そのことが重大な隠喩です。

 碇ゲンドウの妻=碇シンジの母がシトを欲望したように、従って父から派遣された母である綾波レイやアスカもまたシトを欲望します。同様に、大統領特使もゴジラを欲望します。『エヴエンゲリオン』では、ゲンドウが表の法とすれば、シトは裏の法つまり「破壊の享楽」です。同じく、特使にとって、米国が表の法だとすれば、ゴジラは裏の法つまり「破壊の享楽」です。

 愚昧な観客の胸は熱く滾ることでしょう。「日本は終わりじゃない。このままでもまだイケる」「オタクな僕らでも、いざとなったらこんな風に戦える」と。本作が大絶賛されるのは当然です。日本人が一番見たい夢があります。但しこの夢は大統領大使の存在つまり母という虚構を通じてしかありえません。それゆえこの作品は庵野による隠喩的な皮肉だと受け止められるべきです。

 これは庵野版『五分後の世界』(1994年に公刊された村上龍作品)です。つまり「あのときお母さんさえいてくれれば、一緒にお父さんを出し抜けたのに」という物語。実際にはお母さんはいてくれないので、「オタクな僕らでも、いざとなったらこんな風に戦える」ことはないのです。全ては『エヴァンゲリオン』最終2話が示すように、碇シンジのファンタズムにしか過ぎません。

 繰返すと、本作には「破壊の享楽」モチーフと「シンジの妄想」モチーフの2つの柱があります。「シンジの妄想」モチーフに着目すれば、初代ゴジラと違って本作に天皇が登場しない理由も明らかです。皇居の前で回れ右をする初代ゴジラは、不在になった父=人間宣言をした天皇を巡る、南海の英霊たちの物語でした。今や父は厳然として存在する。ケツを舐めるしかない米国です。

「破壊の享楽」において頂点を極めてはいない

 僕の考えでは、「シンジの妄想」モチーフの政治的含意ごときは、自動機械のように解釈できなければなりません。その意味で、本作を見て胸が熱く滾る観客は単なる頓馬に過ぎないけど、まともな自動機械であれば達成可能な解釈に、さしたる享楽はありません。所詮は自動機械の性能を巡る競争(狂騒?)に過ぎません。「シンジの妄想」モチーフは庵野のクセみたいなものです。

 僕が関心を持つのは、『シン・ゴジラ』の「破壊の享楽」が、『クローバー〜』を超えたか、『巨神兵東京に現わる』を超えたか、だけです。そのことだけが、本作が怪獣映画の頂点を極めるものであるか否かを決します。皆さんはどう思われたでしょうか。僕は『シン・ゴジラ』の後、それぞれの作品を2回ずつ見ましたが、答えは必ずしも肯定的ではありません。

 確かに、巨神兵が空を覆い尽くしていたように、ゴジラの巨大な尻尾が空を覆い尽くしていた。かなりよかったけれど、『巨神兵~』を上回ることはありませんでした。なぜなら、第一に、「ああ、焼き直しね」という既視感があったからであり、第二に、『巨神兵~』にあったような日常描写の長いタメがなく、それを行政官僚制の日常描写では埋め合わせ切れなかったからです。

 確かにCGで製作された破壊シーンのデブリや粉塵は「9.11」を思わせるところもあったけれど、『クローバー〜』を上回りませんでした。自由の女神の首の話をしましたが、『巨神兵~』にも東京タワーの破壊シーンが出てきて「破壊の享楽」が一つの山場を迎えます。ベタな話ですが、ラカン図式に従えば有名なランドマークの破壊は我々の超自我を刺激するのです。

 また、『クローバー〜』では、有名なゴジラと張り合うのが難しいという判断で、怪獣の全体像がほとんど描かれず、「視覚的な得体の知れなさ」を手放そうとしませんでした。得体の知れないものほど秩序の反対物になり、得体が知れたものほど秩序に登録された害獣に近いものになります。その意味で『シン・ゴジラ』は不利な戦いをせざるを得ませんでした。

 庵野監督は戦いの不利さを充分に自覚していたことが伺えます。その証拠に、ゴジラの得体の知れなさを、法的規定の想定外という話にスライドしています。防衛出動(自衛隊法76条)では武力行使できるが、要件は外部からの武力攻撃だから一生物に過ぎないゴジラには該当しない。ゴジラの出現は自然災害に該当するが、災害派遣(83条)では武力行使できない……云々。

 規定不可能性という点では、『クローバー〜』は言うに及ばず、庵野が脚本を書いた『巨神兵~』における巨神兵のほうが圧倒的です。巨神兵は規定不可能な存在であるがゆえに、<社会>の外に拡がる<世界>の謎に直接関わる「崇高なもの」として現れます。ゴジラは、相対的に規定可能な存在である分、崇高さを演出しようとすると勝負の不利を感じて白けるのです。

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