荻野洋一の『ロスト・バケーション』評:86分ワンシチュエーションに宿るアメリカ映画の粋

荻野洋一『ロスト・バケーション』評

 女とサメの一騎打ち。この一見して安直にも思える、なんとも大胆不敵なワンシチュエーションドラマを、よくも作ったものだ。主演はTVシリーズ『ゴシップガール』のセリーナ役でブレイクした正統派美人女優ブレイク・ライブリー。冒頭、ビーチに到着したヒロインのナンシー(ブレイク・ライブリー)が悠々と衣服を脱ぎ、かなりきわどいビキニ姿となった彼女の肢体を、カメラは毛穴が見えるほど舐めるように写していく。通常ならこれはセクシャル・ハラスメントだろう。映画とはじつに因果な商売だ。カメラによるセクシャル・ハラスメントを、「サービスカット」などと称して、撮られる方も嬉々として受け入れる。

 ナンシーはテキサス生まれの医学生で、サーファーである。近所のおじさん、近所のサッカー少年、サーファー男2人組、ただの酔っぱらいなど、数人の脇役をのぞいて、出演者はほぼ一人きり。ガンで若くして死んだ母親(生前は彼女もサーファーだった)がこっそり教えてくれた秘密のビーチ、という設定が最初に示されたため、彼女の孤立無援ぶりは観客もよく分かっており、「これは助けを求めてもムダだ」という絶望感が、客席全体に覆い尽くすだろう。とにかく上映時間86分のうち、ほとんど彼女だけが写っている。そしてこの86分という上映時間の短さがすばらしい。

 ハリウッドでは近年、どんどん上映時間が長くなっていき、特撮によるアクションシーンがダラダラと続いて、2時間半を越える作品も少なくない。『トランスフォーマー』など、シリーズを追うごとにひどくなっている。誰か、あの『トランスフォーマー』シリーズのだらしない弛緩ぶりを、ちゃんと作者たちに指摘してあげるべきである。

 ひるがえって本作の86分という上映時間は、かつてのハリウッド映画が持っていた美徳、つまりストーリー・テリングの美徳——エキサイティングで、簡潔、効率的な語りの美徳——を思い起こさせる。〈物語の経済学〉ともいうべき美徳への追求が、ハリウッド映画を洗練させてきたし、またそれによって他国の映画産業を弱体化させるほどの力をもたらしてもきたのだ。もちろん、お役所の答弁よろしく百年一日のごとく〈物語の経済学〉を唱えるだけでは、単なる退廃的なノスタルジーにすぎない。しかし、本作の監督ジャウム・コレット=セラ(じつは配給側のこの表記はムチャクチャで、正しくはジャウマ・クリェット=セラ [ˈʒawmə kuˈʎɛt ˈsɛrə]と呼ばれている)はスペイン北東部カタルーニャ地方の都市バルセロナの郊外出身で、彼は外からハリウッドに入ってきた人間なりの見極めによって、この非常にクリティカルな86分という上映時間を考察してきたにちがいないのである。

クリェット=セラは1974年にバルセロナ郊外で生まれている。18歳で米ロサンジェルスに転居し、キャリアのはじめからアメリカ映画育ちのため、スペイン映画界の経験がない。異端児と言っていいが、彼の作品歴は『蝋人形の館』(2005)、『エスター』(2009)、『アンノウン』(2011)、『フライト・ゲーム』(2014)、『ラン・オールナイト』(2015)というふうに、ホラー、サスペンス、クライム・アクションと、じつにオーソドックスなハリウッドのそれであり、そのありようにはまるでヨーロッパ臭が感じられない。唯一のヨーロッパ的な作品といえば、レアル・マドリーの架空選手を主人公とする『GOAL! 2』(2007)くらいのものだ(それにしても、FCバルセロナのサポーターであるクリェット=セラとしては、この作品の演出を引き受けるというのは、複雑な心境であったことだろう)。

 前作『ラン・オールナイト』は、美しい小品のクライム・サスペンス『ファーナス 訣別の朝』(2013)を書いたシナリオライター、ブラッド・イングルスビーの秀逸な脚本と、主演リーアム・ニーソンと敵役エド・ハリスの名演技を得て、すばらしい佳作に仕上がっていたが、惜しむらくは夜のニューヨークの撮り方がもうひとつだった。空撮も浅薄なスタイリッシュ映像に堕し、この作品をもし思慮深いアメリカ人監督が撮っていれば、もっとすごい傑作になっていただろう、という出来映えだった。しかしそれでも、『ラン・オールナイト』はジャウマ・クリェット=セラ自身のアメリカ映画観が十二分に探究されていたことを、たしかに感じさせる力作ではあったのだ。

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