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成馬零一の直球ドラマ評論『ゆとりですがなにか』

『ゆとりですがなにか』は宮藤官九郎の大きな転機にーー幸せな幕切れが示したメッセージ

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 山路一豊(松坂桃李)の性教育の授業と坂間正和(岡田将生)と宮下茜(安藤サクラ)を並行して描くことで、怒涛の最終話を向かえた『ゆとりですがなにか』。

 道上まりぶ(柳楽優弥)が植木屋に復職し、山路が性教育の授業の準備をする中、宮下茜は結婚前の不安定な心理から、上司の早川道郎(手塚とおる)とホテルで関係を持ったことを坂間に告白してしまう。

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 動揺を隠せない坂間は、茜と気まずくなってしまい、結婚式の途中で逃げ出してしまう。坂間は早川の家に向かい、一発殴るのだが、それでも気が晴れない。取り残された茜は、一人神社で結婚の儀式である三三九度をおこなっていた。同じ頃、家に戻れない坂間も、牛丼屋で三三九度を一人おこなっていた、そこで赤ん坊を連れて失踪していたまりぶの妻・ユカ(瑛蓮)と再会する。連絡を受けて、駆けつけたまりぶは坂間が結婚式から逃げ出した事情を知る。話を聞いたまりぶは坂間を無理やり坂間家に連れていき、宮下茜と「話し合い」をさせようとする。

 最終話では、逃げ出した坂間をめぐる結婚式の騒動が描かれる中、山路が小学生たちに向けて語る性教育の授業のシーンが挟み込まれていく。面白いのは一見関係ないように見えた性教育の授業で話している思春期の話が、坂間と宮下たちはもちろん、出てくる登場人物全員について当てはまることだ。

「身体と違って、心の思春期は生きている限り続きます」と、山路は生徒たちに話す。

「だから、大人も間違える。怠ける。逃げる。道に迷う」
「言い訳する。泣く。他人のせいにする。好きになってはいけない人を好きになる」
「すべて思春期のせいです」
「大人も間違える。間違えちゃうんだよ。だから……他人も間違いを、許せる大人になってください」

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 はじめは、坂間の後輩の山岸ひろむ(太賀)の姿を通してゆとり世代の若者たちのダメな部分を描いた本作だが、そういった欠点やみっともない部分は、ゆとり世代という枠を超えた普遍的な人間観へとつながっていく。部下に手を出してしまった上司の早川も、食中毒の事件を起こしてしまった野上(でんでん)も、バブル世代で何度も離婚しているレンタルおじさんの麻生巌(吉田鋼太郎)も、みっともなくて情けない姿をどんどん見せていき、一番大人にみえた茜ですら、いざ、自分のこととなると迷いを見せて、坂間を傷つけてしまう。

 だから、本作を見ていると、未熟な人間たちが、大人として振る舞いながら何とか生きているのが、私たちの社会なのだ、と思えてくる。

 言葉にしてしまうと凡庸な結論だが、そういった人間の未熟な場面を愛おしいものとして描きつつ絵空事ではない話に仕上げるのは、脚本に説得力がないできないことだ。本作は宮藤が取材したゆとり世代の体験談をベースにした極端だがリアリティのあるシチュエーションを構築し、シリアスな映像に落とし込んでいったことで、コミカルだが硬質なドラマに仕上げることに成功した。

 もちろん、本作で描かれている優しい人間観はクドカンドラマの根底に常に流れていたものだ。

      

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