宮台真司の『さざなみ』評:観客への最低足切り試験として機能する映画

宮台真司の『さざなみ』評

『さざなみ』と『ゴーン・ガール』の並行性

 そう。ここに到って我々は漸く『さざなみ』と『ゴーン・ガール』の厳密な並行性を論じられます。『さざなみ』の妻と夫の関係と『ゴーン・ガール』のそれは同型です。『ゴーン・ガール』の目に見える物語は複雑かつ扇情的ですが、裏物語は以下のようにシンプルかつ本質的です。

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 外見はイカスがイモな男(ニック)がいた。男はベタだった。イカス女(エイミー)がいた。女はメタだった。女はゲームが好き。男は女を手に入れたい。だから背伸びしてゲームした。女はゲームできる男を探していた。だから眼鏡にかなって二人は結婚した。

 当初は男も努力したが、所詮はイモ男。ゲームは続行不能になり、疲れた男は小娘に手を付ける。目撃した女は立腹した。理由は浮気自体ではなく、ベタな小娘だったから。男の単細胞ぶりを証するカラダだけのイモ娘。男を選んだ自分の馬鹿さを思い知る。

 メタ女はベタ男の前から姿を消す。復讐すべく犯罪を偽装する。メタな自分をベタな檻に閉じ込めた怨念ゆえの復讐。当然復讐もゲームだ。男がゲームに参加すれば謎が解ける。現にゲームに参加した男は女の動機を理解する。それも女の計算。

 そこにドンデン返し。テレビで女に呼び掛ける男を女は見る。男のゲームプレイは完璧。出会った頃のあなただ。ゲームできるフリをしたイモ男だと思ったら、ゲームできるじゃないか。そこで、匿ってくれた元彼を殺して男の元に戻る。

 ゲーム再開を呼び掛ける女。あなたは「イモな役者」だと思ったら「大した役者」だよ。「永久にゲームで支配し合うのか」と返す男。しかし「結婚とはそういうもの」と凉しい顔の女。男は再帰的にゲーム再開を決意した…めでたし。
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 「生きる」よりも「演じる」こと。挙動に一喜一憂するより、<メタモード>に入って初めて開かれる地平の上でゲームすること。全てを知って何も知らぬフリをし、何も知らずに全てを知るフリをすること。なぜ<メタモード>でのゲームが推奨されるのか。映画に即して考えましょう。

 経験的には、どんなに美しい女でも、<委ねによる眩暈>が不得手なら、相手の男は浮気します。<委ねによる眩暈>が得意な女が出現したら男は抗えません。妻と浮気相手の女子大生の対比がこれです。淫乱ぶりとは重なりません。淫乱でも<委ねによる眩暈>が不得意な女がいるからです。

 同じく経験的には、<メタモード>のゲームが得意な女に<委ねによる眩暈>が不得意な場合が多く、ベタな女に<委ねによる眩暈>が得意なケースが多い。<メタモード>が自己防衛に関係するからです。実際、妻エイミーは<委ねによる眩暈>が不得意な分、<メタモード>のゲームが得意です。

 でも妻エイミーは<眩暈>から見放されていません。夫が<メタモード>のゲーム能力に長けている事実がTVインタビューで分かった瞬間、彼女は一瞬で<眩暈>に陥ります。ベタな<委ね>を経由せずとも、メタとオブジェクトを高速で往来するハイパーゲームに<眩暈>を覚えるのです。

 映画は、母が書いた超人気児童文学「完璧なエイミー」のモデルとして虚実を往復して来た経歴ゆえに、妻は<メタモード>の<眩暈>を知り、だから虚実を往復できる夫を見つけてゲームしようとしたのだとします。これが特殊すぎる設定なら、<メタモード>の推奨は空振りに終わります。

 判断は皆さんにお任せして(概念道具は揃えたので)、『さざなみ』に戻ります。『さざなみ』の夫婦関係と『ゴーン・ガール』のそれは同型です。『さざなみ』の妻も『ゴーン・ガール』の妻も、ゲームの複雑性の大小はあれ、虚構「女というもの」を前提にしたゲームの能力を要求します。

 2作品の違いがあるとすれば、第1に『ゴーン・ガール』の妻が要求するのが、ゲームであることに言及する再帰的ゲームで、複雑性が高いことと、第2に『ゴーン・ガール』の夫が妻の要求を理解し応えようとするのに、『さざなみ』の夫は、さして高水準でもない妻の要求を理解しないこと。

 この違いに並行して観客に要求される理解力も異なります。『さざなみ』の妻を見て「結婚前の話なのに粘着なんだよ」と経験値をアピールする馬鹿男が、『ゴーン・ガール』の裏物語を理解できないのは当然。それが日本の女達を不自由にします。『さざなみ』は最低足切り試験です。

 前回を思い出せば、<性愛>の不可能性には、(1)[<性愛>を<社会>の外として享受する女/<性愛>を<社会>の中の息抜きとして享受する男]の対立を巡るものと、(2)[虚構「女」を巡る<なりすまし>に長けた女/<なりすまし>ゲームが理解できない男]という対立を巡るものとが、あることになります。

 ここでの女や男を単なる理念型に過ぎないと見做していただいて構いませんが、既にお分かりのように、(1)と(2)は厳密に結合しています。<社会>を<なりすまし>てやり過ごせない存在が、<社会>の外を開示する<性愛>から臆病に身を退けるのは当然です。これは単なる故障か必然か?

■宮台真司
社会学者。首都大学東京教授。近著に『14歳からの社会学』(世界文化社)、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎)など。Twitter

■公開情報
『さざなみ』
公開中
監督:アンドリュー・ヘイ
原作:デヴィッド・コンスタンティン
出演:シャーロット・ランプリング、トム・コートネイ
配給:彩プロ 
2015年/イギリス/英語/カラー/ビスタ/5.1Ch/93分/原題:45 YEARS
(c)The Bureau Film Company Limited, Channel Four Television Corporation and The British Film Institute 2014
(c)Agatha A. Nitecka
(c)45 Years Films Ltd
公式サイト:http://sazanami.ayapro.ne.jp

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