菊地成孔の『アイアムアヒーロー』評:「原作を読まなきゃな」と思わせるんだけど、それが失敗なのか成功なのか誰か教えて。

更に、「まったくわからないところ」

 「ウイルスの説明、感染開始の説明、感染経路と速度、更には被害の規模について何もわからないよ」「自衛隊の軍用機は、ただ飛ぶだけで、自衛官がゾキュンを殺すシーン無いし」「長澤まさみは、単なる看護師でしょ。傭兵か格闘家みたいな演技プランと衣装プランだけど、それってテレビドラマ<若者たち>の時の<ロック好きのトラック運転手>のプランニングと衣装をクリックしてドラッグしてきただけでしょ。なんせ最後、車運転してタバコ吸うし」などと低脳なことばかりを言っているのではありません。

 そんなものは、いっそ総てわからない方が(「とうとう最後まで分からなかった」でも全く構わないです)不条理的な日常崩壊の恐怖があります。「ヒッチコックの<鳥>と同質の恐怖。<鳥>は実のところゾンビ映画の先駆」とかいった、それこそ主人公の妄想みたいなことは言いません。

 ただ、問題は、「原作にはみんな書き込んであるんだろうな」感が抜けない限り、最後まで不条理(巧みな無説明)にも、物語(巧みな説明)にも、どっちにも身を委ね切れない息苦しさが続くことです。これが原作モノの特性なのだろうか。

例えば、<実数>。特に、クライマックスは弾数の描写だけで充分保つタイプの物語。だと思うんですが

 一丁の銃が物語の終結部まで重要性を持つタイプの本作では、弾の残り、その補充、敵の数、というミニマルな3ポイントだけで、やりようによっては、一作まるまる貫通可能なサスペンスを生み出せます。

 本作ではクライマックスのそこが結構雑で、「何発あんのよ? 何発あんのよ? 雑にしないでよー」そしてそれがわかった時「えー。弾数と敵の数が同じなわけ。まさかそれで丁度良く全員殺してゲームオーヴァー。じゃなかろうね。と思ってら、あれ、ゲームオーバーしちゃったよー! ゲーム感覚だろうこれー!(笑)」という、ちょっと呆れるような展開になります。

 再度、ここでは、別に綺麗に弾使い切ってゲームオーヴァー、で良いんだけど、そこに至る、弾数と敵数のどんでん返しだけで、かなりの充足感が得られるはずですが、脚本は「名前だけは英雄だが、妄想癖があるオタクのヘタレが、愛する人(一人は実質上の天使、一人は実質上の売女にして堕天使。再びむせかえるような童貞感)を守るために、溜め込んでおいたスキル(クレー射撃)が覚醒され、全員射殺というトランスに入り込み、長時間の大虐殺が行われる。ということを描くのに手一杯です。

 こうしたイズムの波及効果は馬鹿にならず、ゾンビ映画の骨法である「愛する人がゾンビになってしまう。泣きながら殺す」も、当然出てきますが、心がピクリとも動きません。ゲームのゾンビもの、では、泣けないんじゃないですかね? それをそのままトレースした感じと言うか。

 VFXも忙しい、カースタントも忙しい。ロメロ版へのリスペクト(ショッピングモールへの立てこもり、という胎内回帰の快楽)と、現代性の加味(不良の集団が自警団化し、いわばゾキュンもドキュンも等しく敵。という構図)も忙しい。

 つまり、全体的にせわしないのですが、これは善意で観れば「テンポが良い」という事になりますが、驚異的な低リテラシーの観客であるワタシには、「原作の名シーンのダイジェストというミッション」と、「それがそう見えないようにするためのミッション」に引き裂かれているように見えてしまい、結果「原作にはもっと深い書き込みがあるんだろうな。原作読むか」という感想に誘導(もう、そうするしかない)されてしまうのが、ちょっと残念でした(ちょっとだけです。何せ、全体の新鮮さが半端ないから)。

特に、最重要なのはラストで

 日本が、というか、地球がどうなっているのか全く説明がないので、生き残った3人がにこやかに山道を走り、どこかへ(映画だけ見ている限り、お、そ、ら、く、、、、富士山)向かうわけですが、心から安心していいのか、一抹の不安を残せばいいのか、「どうせ笑ってられるのも今だけだしな」とペシミスティックになればいいのか、宙ぶらりんです。

 腐るほどある、脚本学の本には殆ど総て、「事件は、偶然に始まっても良い、しかし、偶然に解決してはいけない」という鋼鉄のディシプリンがあります。

 残念ながら、本作は「偶然解決」の割合が後半からちょっとずつ高くなり、それが原作を圧縮した結果なのか、原作そのものが悪いのかの判断がつかなくなるため、「原作読もう」感に逃げ込むしか無くなるのではないかと思いました。ショッピングモールに逃げ込むしかない、登場人物たちのように。

しかし、もう完全にぶっちゃけてしまい

 「日本の、漫画原作のエンターテインメント映画は、原作と合わせて一つなのだ、いや、それどころじゃない。そういった映画たちは、基本的に漫画の読者へのサーヴィスやイヴェントなのである。アイドルのCDみたいな感じで」

 と決めてしまったら良いのではないでしょうか? 後数ミリで決壊すると思うんですけどね(「何言ってんだバーカ。とっくにそうなんだよ現状は」と有識者に言われた場合は苦笑して頭をかきます。内心で絶望しながら)。

メディアミックス(汎テキスト性)

 つまりこういう事です。『セーラー服と機関銃 -卒業-』(参考:菊地成孔の『セーラー服と機関銃 -卒業-』評:構造的な「不・快・感」の在処)で角川文庫/映画が行おうとしたメディアミックス(原作小説と、映画と、主題歌のCD)による全方向的販促計画は、完全なドンキホーテだったが(今思い返しても、あれは本当にヒド凄かった→メディアミックスが)、漫画原作の、高予算エンターテインメント映画は、全員がナポレオンかアーサー王なのだと。

と、なんだかんだとケチばかりつけたようになってしまいましたが

 冒頭に書いた通り、本作は、あくまでワタシにとって、大変に面白く、つまり娯楽映画として2時間7分はあっという間で、生理的にキツすぎる部分もなく(血糊嫌いなのに)、先ほどの推測に戻りますが、VSFの水準もなかなか高いと推察され、追記に書きますが、韓国ロケで韓国の技術を使った手作りスタントも大変な迫力で、文句はありません。

 しかし、結果としてワタシは原作漫画を読んでいないし、それが、普段どんな漫画も読まないからなのか、映画化したのを観ちゃったからなのか、第三の理由なのかは、ワタシには客観視出来ません。

ヒステリックグラマー映画

 本作の最もクリティカルヒットは、「英雄」という名の主人公が、名前負けしたダメ英雄(ひでお)から、本当の英雄(ヒーロー)に成長することではありません。

 だってもう「そうなるしかねえじゃん。これで本物のヒーローになれなくてゾンビに噛み殺されたら、かなり斬新だぞ」としか思わせてくれない、ベタな設定だし、既に、しかも同じ漫画というメディアでやり尽くされた技法で、特に、90年代には天才あだち充先生の『H2』が、更に高等技術を使っています。『H2』では、主人公が2人おり、一人が「比呂(ヒーロー)」、一人が「英雄(ひでお)」で、どちらも甲子園に行き、ヒロインを取り合います(たった今、慣れぬ検索で知ったこと)。

 本作のクリティカルヒットは、何と言っても大泉洋さんの衣装でしょう。本作は「ヒステリックグラマー映画」と言って良い。あの性格の、あの仕事の、あの男が、キャップはヒステリックグラマー。キャラ設定の、しかも小さい部分ですが、画竜点睛ですね。

 また、途中、ショッピングモールで、ゾンビもののお約束であろう「高いものが好きなだけ買える」シーンで、誰もいない店内で高めのライダースジャケットを見つけ、身につけた瞬間から物語が展開し、<カッコ良いライダースジャケットを着た、情けない男>の時間を経て、物語がクライマックスに至ると、最初から着ているオレンジ色の汚いパーカーに戻る。これもベタとはいえ上手いです。すごく。具体的にも、象徴的にも、意味がある。

 とはいえこれとて(スンマセン。無限ループ・笑)、「原作にあるのか、、、なあ?、、どっちなんだろうか?、、、」という宙吊りに回収されてしまう。「止めたいんだよ俺だって。原作読めばそんで良いんだ、という考えに誘導されっぱなしなのはさ!!」と思ってしまいました。

 これは、ワタシにとって漫画が「まだ見ぬ美女」であり、映画が「良く知る美女」だからでしょう。一種の、逆転した特権とも言えそうです。

今後映画の原作はどうあるべきか

 前述の様に、別に、いまのままだっていいの。あたしたちの関係は。このままで。でも、もし先に進みたいとするならば、漫画一人勝ちに代わる強者を用意しろとは言いません。過去、日本映画は、海外でヒットした映画のリメイクは言わんをや、神話や歌舞伎、講談や落語や小説や、実際にあった事件や、1曲の歌謡曲さえも脚本化しました。「○○家の人々」というタイトルをつけて、ちょっと洒落ていると満足している脚本家には教示するべきです。「エバラ家の人々」という過去に存在した作品が、「焼肉のタレのテレビCMの映画化」だったということを。

 ワタシが急務だと思うのは、オーセンティックかつ斬新で力のある脚本家のデビューですが、それ以前に、ヨゴレに成る危険を犯してでも、「カントの純粋理性批判の映画化」「フロイドの夢判断の映画化」「マイリー・サイラスのインスタグラムの映画化」「『ルーム』や『セッション』等、封切られたばかりの海外映画の映画化」等々、考えられうる全ての「物語」を片っ端から日本映画の脚本にし、「漫画が最強の物語発生装置」であることを液状化することです。現状が持つ、構造的にクラッチされた抑うつ感(原作漫画がすごいから、映画の物語がすごい。という、かなりガチンコな階級の存在)からの解放が100%とは言わずとも、解消される可能性があります。

 お世辞抜きで、どなたにでもお勧めできます。でも、一番お勧めできるのは原作の愛好者でしょう。もし彼らが、ああだこうだとケチをつけているとしても、或は素晴らしいと拍手しているとしても。以上、宇宙人なみの視点からのレポートでした。

(追記)

 本作のクライマックスの一つ「埼玉県の県道での凄まじいカースタント」シーンは、韓国で撮影されたもので(「ショッピングモール」もそう)、あくまで日本映画の改革という視点としては、下手すると、本作の最美点かも知れません。

 ここでは、タクシーがドリルのように回転する、という、激しいシーンが展開されますが、これは韓国映画/テレビドラマでは定番のものです。

 一時期の「香港映画のワイヤーアクション」と似て、どうやらアジアには、手作業による高度な技術開発の伝統があるようで、あれは、車の車体に、駒のように紐を巻いてしまい、それを(再び)駒のように一気に紐を引っ張ることで、(再び)、車自体を駒のように回転させる技術で、あくまで推測ですが、『るろうに剣心』や『マトリックス』が本格的に(香港映画の技術である)ワイヤーアクションを大胆に導入したのと意義的には同じです。大変有意義だと思います。

 あの道もおなじみの道で、あのシーンが撮りやすく、さまさまな作品で使いまわされていますので、韓流映画/ドラマペンの方なら、作品名まで指摘できるかもしれませんが、あえてここでは伏せておきます。ワタシがこの映画にもつ、オプショナルな好感度の所以ですね。

(文=菊地成孔)

■公開情報
『アイアムアヒーロー』
公開中
原作:花沢健吾『アイアムアヒーロー』(小学館「週刊ビッグコミックスピリッツ」連載中)
監督:佐藤信介
脚本:野木亜紀子
音楽:Nima Fakhrara
キャスト:大泉洋/有村架純/吉沢悠/岡田義徳/片瀬那奈/片桐仁/マキタスポーツ/塚地武雅/徳井優/長澤まさみ
公式サイト:http://www.iamahero-movie.com/
上映時間:2時間7分/シネマスコープ
製作:東宝
共同製作:エイベックス・ピクチャーズ 小学館 電通 WOWOW 博報堂DYメディアパートナーズ ジェイアール東日本企画 KDDI TOKYO FM 日本出版販売 小学館集英社プロダクション ひかりTV GYAO
製作プロダクション:東宝映画
配給:東宝
(c)2016 映画「アイアムアヒーロー」製作委員会
(c)2009 花沢健吾/小学館

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