菊地成孔の『セーラー服と機関銃 -卒業-』評:構造的な「不・快・感」の在処

知っていたかね皆の衆

 そもそも本作は、「角川映画40周年記念」の作品でもあるが、名だたるヒットシリーズを持つ、赤川次郎氏の『セーラー服と機関銃』がシリーズ化される事のビッグプロモーションなのである。

 本作の原作『セーラー服と機関銃~卒業~』は既刊(2006年)であり、今年の1月(本作公開は3月)には最新作『セーラー服と機関銃3~失踪~』が上梓されている。タイトルだけでは想像もつかないであろう。これは星泉の娘が主人公なのである。本作は、この小説のプロモーション映画という側面も持っているのである。

 角川文庫が角川映画を立ち上げる、その後のお家騒動は、検索なしで諳んじられる者と、検索によってさらに詳しく知ることができる者、全く興味が無い者とに分かれるだろうが、いずれにせよ、我が国のメディアミックスの先駆である「角川文庫/映画」全盛期の名コピー「読んでから観るか、観てから読むか」に代表される、本が映画のプロモーションになり、逆もまた真なり。という手法を、40年目になっても平然と信じている事に、ワタシは驚愕した(ついでに彼等は「主題歌商法」も信じている。思わずウッヒー!!!)。

 だったら尚更、ここで最も角川に貢献し、優遇される者、映画の物語を規定し、脚本の限界を規定し、作品の出来をほぼ決定してしまう権力の在処はどこにあるだろうか?

天然の天才(ロス・マクドナルド好き)

 ロス・マクドナルドは、LAにあるマックの事ではない。レイモンド・チャンドラーを一流としたときの、黄金の二流ハードボイルド作家であり、赤川氏が最も敬愛するミステリー/ハードボイルド作家である。この絶妙な愛好関係に関する分析は既にアチコチでなされているので省くが、赤川氏が「世界でもおそらく最多作家」である事も、「天然の天才」である事も、同じく広く知られている。

 あまりの多作で同時に複数の連載を抱え、小説の登場人物一覧表を書斎に貼り付けていた時期があり、自らが作品中で殺した人物のお墓を実際に作っている(墓参りに行く為!!!!)事でも有名。特筆すべきは「犯人もトリックも決めずに書き始め、書きながらトリックを決め、犯人を決める(こともある)という、凄まじい言葉を残している人物なのだ。星泉の時空間の捻れなど、氏の手にかかれば、いかようにも設定出来、いかようにも解体出来、いかようにも再開出来るのである。天才、赤川世界の中であるならば。

同じエンタメでも、否、同じエンタメだからこそ

 小説と映画(の脚本)の違いに関しては諸説あるだろう。ただ、一見、映像や音楽による攪乱やトリップの可能性がある(それは一面の事実だが)、総合芸術としての映画よりも、小説の方が遥かに自由である。何も前衛文学の話をしているのではない。赤川エンタメ小説は、時として伏線や事実関係といった第一義のリアルの遥か以前の段階である、そもそもの自立律、同一律、排他律が働かない場合が多々ある。我々が経験する事象の中では、睡眠中に見る夢が最も近い。

 ワタシは、諧謔などでは決してなく、ディヴィッド・リンチが赤川次郎の『三毛猫ホームズ』を原作に映画を撮れば、ロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』をはるかに超える、前衛娯楽ミステリーが完成すると信ずるものである。最大の敬意とともに断定するが、本作で最も悪く、最も偉いのは赤川次郎氏である。言うまでもなく、本人には悪意の欠片もある訳が無い。橋本氏よ、前田監督よ、期待して裏切られた総てのファン諸氏よ。この作品のラスボス、巨悪は、天然の巨人、赤川次郎氏なのである。

と、その上で(童貞感覚について)

 とはいえ、権力者を撃てば事足りるとするのは青年の主張だ。監督である前田弘二氏は、あそこが下手、ここが下手、ここは優れている、ここはまあまあ、という各論よりも、総論として「童貞として完成されすぎている」とするのが現在の所、最も妥当であろうと思われる。

 作品中央で繰り広げられる、冗長なまでに長い銃撃のシーン、主演の橋本氏に、現代のアイドル映画であるならば、一滴は絶対に振りかけなければいけない「エロ=萌え」センスの悪さ(監督自身の欲望もセンスの統一性もまったく感じさせない、橋本氏へのスタイリングの適当さ、「ラブホテルの中で無邪気に振る舞う=ドキドキ」というお安い童貞感、「夏だったら、あれぐらいの夕立で着替えるかね?」と突っ込まれてしまうであろう、力みすぎ無理目の「着替え」シーン等々)、が、やがて性的経験を積む事で改善されることを祈る。「童貞なのに萌えが撮れない」というのは、表現者としては致命的だ(赤川次郎氏の圧力に屈したのであるのであれば撤回する)。

童貞の弊害(もっとヤバい方)

 わが国では、童貞は萌えに長けている(童貞なので)という定式のみが一般化されているかもしれないが、童貞感覚は、美少女に代表される解り易いフェティッシュやロリータコンプレックスといった「メジャー萌え感覚」だけに発露するものではない。ペニスの象徴としてフロイド界隈では1、2を争うピストル、つまり銃撃戦への性的執着もまた、童貞が技術とセンスを問われるポイントである。「童貞はドンパチが大好きの法則」としても、さほど問題はないであろう。

 評価の基準は多岐にわたるが、ここでは一点のみ「すぐに大量のピストルを出してきて、大人数による長時間の銃撃戦を撮影しながら、誰が射殺され、誰が逃げおうせ、誰が重症、軽傷を負うか?」というポイントは、その後の物語全体に影響すると同時に、偶然のせいにできるという意味でイージーであり、すなわち鬼門であるという事だ。

 本作での銃撃戦は、前述の「謎の絞首刑道具(これは赤川原作にあるのかもしれず、安易な断罪は避けるが)」も含め、批判を覚悟ではっきりと指摘するが、絵が欧米のそれと水準が揃っているだけで(揃っているが故に)、余りに酷すぎる。

 なぜ、数秒撃たなかったのか、何故、数ミリ外れたのか、これは、歴とした根拠を持った重大事でないといけない。銃社会であるアメリカは、銃社会というリスクと引き換えに、銃撃戦におけるリアリティもカリカチュアライズも完璧にコントロールし、その後の映画の流れを壊さないどころか、きちんと強化する。

 童貞がのめり込むように撮るドンパチとは、本筋と関係なく水着のアイドルが歌い踊るシーンがあるのと同義である。これは(本当に素晴らしいことに)銃社会でない日本の映画界が孕む、構造的な弱点であるが故、指摘しておきたい。「今更タランティーノから勉強し直せ、とまでは言わないが」とは言わない。今更タランティーノから勉強し直すべきだ。

 『ヘイトフル・エイト』の評価はさておき、あの作品で発射される銃弾数は、一見好き放題に見えて、その実、最低限しか撃っていない。また、次週扱う韓国ノワール映画(『インサイダーズ/内部者たち』)では、目も覆わんばかりの残虐描写や派手なヴァオイオレンスシーンに満ちているのにもかかわらず、とうとう銃弾が、というよりも銃自体が一度も登場しない。という凄まじい記録が打ち立てられている。もちろん、本作の銃撃戦のシーンが、100%赤川次郎氏の原作に忠実なものだった場合は、すべての指摘を取り消す。

 最後に、この点も「童貞感」に含めるべきかどうか、ワタシ自信、速断は避けたいのだが、本作で最も「リアルな絵」は「交通事故死した女子高生の死体」である(これ自体は、ちょっとした挿話)。この、アンバランスなまでに突出したシーンの迫真性は、「映画の絵ではなく、テレビのニュースやネットのグロ系動画の絵である」と言うべきであろう。まあ良い。若々しいよね。今っぽいわ(監督は30代)。しかし端的に聞きたい、それで良いのか?

■公開情報
『セーラー服と機関銃 -卒業-』
全国公開中
出演:橋本環奈、長谷川博己、安藤政信、大野拓朗、宇野祥平、古舘寛治、北村匠海、前田航基、ささの友間、柄本時生、岡田義徳、奥野瑛太、鶴見辰吾、榎木孝明、伊武雅刀、武田鉄矢
監督:前田弘二
脚本:高田亮
原作:赤川次郎「セーラー服と機関銃・その後—卒業—」(角川文庫刊) 
主題歌:橋本環奈「セーラー服と機関銃」(YM3D/YOSHIMOTO R and C)
(c)2016「セーラー服と機関銃 -卒業-」製作委員会
公式サイト:http://sk-movie.jp/

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