女性同士の恋愛と自立を描く『キャロル』の、“赤色”に込められた深い意味

『キャロル』における“赤色”の意味

 パトリシア・ハイスミス原作の映画となると、やはり真っ先に想起するのはルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』である。かつて映画評論家の淀川長治先生は、この映画について、同性愛を描いた作品であるという独自の見解を示したことは有名な話だ。とりわけ同性愛について不寛容な時代であったこともあってか、それに賛同する声はほとんどなかったというが、のちにハイスミス自身が同性愛者であることを明かしており、淀川先生の説に信憑性が増した。『太陽がいっぱい』では、自分とは正反対の同性に対する羨望から発展した殺意を描き出し、主演のアラン・ドロンとモーリス・ロネそれぞれが違う形で、相手を支配したいという欲求を剥き出しにする。

 一方で『キャロル』という物語では、二人の主人公の欲求は相手を支配することではなく、自己を支配し確立することに向けられているように見える。夫に飾り物のように扱われることから解放されようとするキャロルと、デパートで働きながらカメラマンを目指すテレーズが出会い、恋に落ちる様は、許されない愛を描くメロドラマではなく、二人の女性が「自立」を得るための勇気ある冒険が描かれているのである。

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 テレーズとキャロルそれぞれに、車の後部座席から外を歩いている相手を見つめる窓越しのショットが用意されているが、密室である車内から解放的な外の空間を見つめる眼差しは、まさに「自立」を象徴しているのではないか。テレーズがキャロルを見つめる序盤のシーンの意味は。単に回想録の切り口に使われているのではなく、大きな決断をしたキャロルへの羨望であると終盤で判る。対してキャロルがテレーズを見つめるクライマックスのショットでは、自分と離れて活き活きと働くテレーズを見たことによって味わう喪失感とともに、羨望も存在しているのだろう。だからこそ、彼女は次のシーンで大きな決断を踏み切るのである。そういった点で、同じハイスミスの原作であっても『太陽がいっぱい』と『キャロル』は、類似しているようで、男女の違い以上に正反対の物語の進め方をするのである。

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 『キャロル』の舞台となるのは1950年代のニューヨーク。同性愛が社会悪として認識されていたその時代に出版された原作は、ハイスミスの自伝的物語なのである。しかも、それが出版されてから1990年までの長い期間にわたり、この小説がハイスミスの書いたものだと公表されていなかったというのだから、当時の表現の不自由さを感じる。その不自由の中で生み出された物語に、敬意を払って向き合うことができるのが、トッド・ヘインズという監督の特長である。

 彼はこれまでの寡作のフィルモグラフィーの中で、『ベルベット・ゴールドマイン』でのグラムロックのアーティストや、『アイム・ノット・ゼア』でのボブ・ディランのように、抑圧から解放されて表現することを志した人物を描き出した。また『エデンより彼方に』では本作と同様に50年代の中流階級を舞台にした女性の解放を描いたのだ。同作では当時の映画で使われていたようなイーストマンカラーを作り出すことにより50年代の雰囲気を再現し、さらにオマージュを捧げたダグラス・サークの『天はすべて許し給う』では亡くなっている設定だった夫を、同性愛者として存命のキャラクターに描き直すということで、表現に規制があった50年代に実現できなかった映画を作り出すことに挑戦したのである。

 同じように50年代を描く上で、今回の『キャロル』ではまた違ったアプローチをしている。全編16㎜フィルムで撮影を行い、それをブローアップ(拡大)することで、映像全体はかなり粒子の粗い画になり、暗い部分にノイズが目立ち、光がじんわりと放たれることで、どことなくレトロな味わいを引き立たせる。もっとも、50年代にはすでに35㎜フィルムが主流だっただけに、16㎜フィルムでの撮影をすることが当時を回帰するためのものにはならない。繊細な映像によって主人公二人の心理の不安定さを表現するために、あえてこのような選択をしたのではないかと見受けられる。ではどこに50年代が潜んでいるのか、それは徹底的に作り込まれた衣装や美術によって、物語の設定としての役目を果たしているだけである。劇中では、不思議と終盤まで具体的に何年の物語であるかに触れられないのである。つまりこの映画で描こうとしていることに、時代などは関係のないということである。

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