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宮台真司の月刊映画時評 第4回(後編)

宮台真司の『アレノ』『起終点駅 ターミナル』評: 潜在的第三者についての敏感さが失われている

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二者関係は潜在的三者関係である

 前編では橋口亮輔監督の『恋人たち』を取り上げ、「ナンパ師視点」という特徴を挙げました。これに関連して、映画が特に性愛関係を描く際、説得的なものになるケースと、そうでないケースとを岐ける、最も重要なポイントの一つをお話しします。ちなみにそこでは脚本家や演出家(映画監督)の「人間の関係性に対する理解」が問われます。(※編集部注:メイン写真は『起終点駅 ターミナル』のもの)

 人間の二者関係は、潜在的な三者関係です。その理解が演出に表れているかどうかが、多くの映画にとって重大です。戦間期に活動した社会学者G・H・ミード(1863~1931)に従えば、潜在的な三者関係とは主我・客我・他我です。他我は「そこにいる他者」。客我は「そこにいない他者(たち)の反応の中に結ぶ像」。主我は「私としての私の反応」。

 私が、他我alter ego=「そこにいる他者」に向けて、何か行動したとしましょう。それが何を意味するかは、客我Me=そこにいない他者(たち)の反応の中に結ぶ像として、与えられます。その像を前提として、主我I=「私としての私」の反応とそれに基づく行動が後続します。ちなみに、この段落の冒頭に言う「私」は、主我Iに相当しています。

 ミードによれば、私の行動が何を意味するかという理解は、「私としての私」ではない「不在の他者の視座」からなされるしかありません。「不在の他者の視座」=「そこにいない他者の反応」を取得する営みをミードは役割取得role takingと呼びます。彼に従えば、役割取得は生得のものではなく、幼児期からのゴッコ遊びを通して習得されるものです。

 幼児は、ママゴトで母親が見る世界を取得し、泥棒ゴッコで泥棒が見る世界を取得します。当初はこうして個別役割を一つずつ取得しますが、やがて他者一般generalized others の役割取得ーーヒトは一般に世界をこう見るという理解ーーに到ります。こうして、自分の行動が他者一般の視座からどう見えるのかを理解するようになるのです。

 ミードの主著『精神・自我・社会』(原著1934年)に従えば、客我Meは普通、他者一般の反応の取得によって与えられる像visionを意味します。でも、それができるようになる過程でのゴッコ遊びの段階では、客我Meは、想像された「不在の」父や母の、或いは想像された「不在の」警官や泥棒の、反応における像であるほかないのです。

 そのことを踏まえて改めて確認するなら、主我Iは「私としての私」に、客我Meは「そこにいない他者」に、他我alter egoは「そこにいる他者」に関わります。ティーポットが二脚ではなく三脚あって初めて安定するように、人間関係も純然たる二者関係ではなく、「潜在的他者」を想像した「潜在的三者関係」として初めて安定するものだということです。

他者の欲望が自己に転写する機制

 誰もが二者関係を大なり小なり「潜在的三者関係」として生きているという指摘で思い出すことがあります。僕は22歳のときに3年間付き合った女との初恋に破れ、「もっといい女」を求める営みにハマります。1990年代前半に数多くのナンパ師たちを取材したが、とりわけ高偏差値系ナンパ師についていえば、当時はよくある出発点でした。

 僕はどんな女とつきあっていても絶えず「自分を振った女の気配」を感じました。そんな女で手を打っちゃうの? ーー脳裏に聞こえるそんな囁きが僕を次の女に駆り立てました。でも、自分を振った女の記憶が薄れるにつれて、いい女探しは単なるオートメーションへと頽落して、僕は感情が動かないナンパマシーンになり下がってしまいました。

 ちなみに、失恋の埋め合わせで「もっといい女」を探す場合、自分を振った女が理想化されているので、そんな女が現れる可能性はありません。性愛系ワークショップで「構造的な失敗」の一例として繰り返し述べてきたし、皆さんも先刻御存じの通りです。「女への復讐」というクソ意識を含めて、ナンパ界隈では本当によくある話です。

 最近は「NTR(寝とり、寝取られ)」がブームだから敢えて話すと、夫婦関係や恋愛関係に第三者を混ぜ込むのも、同じ意味での工夫です。純然たる二者関係はルーティン化して既知性の枠内に絡め取られがちです。そこに第三者が入ると、第三者が恋人に感じた欲望を自分に転写することで、自分の欲望を多様なバリエーションに展開できます。

 つまり、あの男・この男・その男が見るように自分のパートナーを見ることでーー他者たちに映じたパートナーのvisionを自分に転送することでーー彼らが欲情するようにパートナーに対して欲情できます。体育会系のホモソーシャリティにまみれる機会が豊かなら、性愛に限らずそうした営みの現実性を理解できるので、年長世代に有利ですね。

 フロイトの古典的な理解に遡れば、動物にあるのは性愛の本能。人間にあるのは性愛の衝動。本能的欲望には生得の型がありますが、衝動的欲望は本来は無定型です。これが型を持つようになるのは、父の命令によって去勢を受け入れることでーーラカン的には言語活動の場に強制的に引きずり出されることでーー型を受容するからだとされます。

 あえて言えば、欲望の発露が、父親によって「常に見られている」という感覚ですね。フロイト自身はそうした表現をしていませんが、「全ての二者関係が潜在的第三者を含んだ潜在的三者関係としてある」とするミードの理解は、実際にはフロイトの古典的な着想を前提にしたもので、ミード自身も「客我Meとは検閲官だ」と明言しています。

 フロイト=ミード的発想のリアリティは、性愛を持ち出せば分かりやすい。第三者に見られている感覚に襲われると、ソレを検閲官だと感じることで、極端に萎縮してヘタレたり、逆に敢えて衒示的になって高揚したり。そんな経験が誰にもあるはずです。性的欲望の無定型さを背景に、第三者を孕んで欲望がリセット・リニュアルされるのです。

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