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エイブラムスはフリー・ジャズ界において最も重要な位置を占めるミュージシャンである。従って、彼を語る前に、まずフリー・ジャズの発生について簡単に触れておく必要がある。
40年代半ばからチャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーらによって推進されてきたビバップ運動は、55年、パーカーの死と共に、より黒人的なカラーを強調したハード・バップへとそのスタイルを変えていく(後にファンキー・ジャズへと移行する)。一方マイルス・デイヴィスは、これから到来するであろう未来のジャズを予測し、着々とその準備を進めていた。59年4月には、新しい息吹を感じさせるモード・スタイルを取り入れた『カインド・オブ・ブルー』を発表。ここにメインストリーム・ジャズの新たなる道が拓かれることになった。
時同じく59年、オーネット・コールマン(as)がニューヨークに出現。ドン・チェリー(tp)らと同年5月にアルバム『ジャズ来るべきもの』を録音、ジャズ界に一大センセーションを巻き起こす。それは、今までのジャズ本来のコード進行に基づいた一定の形式的インプロヴィゼーションによるマンネリ化を崩すべきものであった。これがフリー・ジャズのコンセプトであり、エネルギーの源である。このフリー・ジャズ運動の波は、一部の進歩的なミュージシャンたちにより、いち早く取り入れられ、さらに一大ムーヴメントとして急速に広まっていった。
オーネット出現の追い風を受けて、61年にはシカゴにおいてリチャード・エイブラムス(p)が中心となり「エクスペリメンタル・バンド」が結成される。このバンドにはシカゴ中の若いミュージシャンが多数集結した。さらに65年5月、AACM(The Association for the Advancement of Creative Musicians)の活動を開始。エイブラムスはその初代会長をつとめる。その中からAEC(Art Ensemble of Chicago)が生まれたのは有名。
ムハル・リチャード・エイブラムス("ムハル"とは首長の意味である)は、30年、イリノイ州シカゴ出身。17歳の時にシカゴのミュージカル・カレッジでピアノを学び、その後も独学で楽器をマスターする。プロ入りは48年。作編曲にも才能を発揮し、50年にはキング・フレミング・オーケストラに編曲家として参加。また、57年に同地で結成されたグループ、MJT+3の初代ピアニストとして活躍する。
彼のピアノは単なるフリー・フォームに流されることなく、一種独特のクールな構築美を表現している。代表作は『MJT+3』、『Levels And Degrees Of Light』、『Sightsong』、ピアノ・ソロの『Afrisong』など——コンテンポラリーなスタイルからラグタイムまでこなす才人である。現在も後進の指導に力を入れ、活動中だ。 (山本晋平)

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