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荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第11回

荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第11回:ディスコで交錯したソウルとロックンロール

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佐野元春
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「そしてそれに伴ってディスコ・ミュージックも再び盛り返しつつあり、人気を呼んでいる。ソウル・イベリカ・バンドの「ベイビー・シッター」がディスコ・ヒットから久々のメジャー・ヒットとなり、現在ではC.J.&カンパニーの「悩殺のデヴィル・ガン」、ヒートウェイブの「ブギー・ナイト」などがディスコ・ファンのみならずポップス・ファンの間にまで広く親しまれている」(上野シゲル、映画『サタデー・ナイト・フィーバー』オリジナル・サウンド・トラック日本盤(1977年)、ライナーノーツより)

江守藹『黒く踊れ!―ストリートダンサーズ列伝』

 ダンサー/プロデューサー/イラストレーター・江守藹の2008年に出版された回想記『黒く踊れ!―ストリートダンサーズ列伝』を読むと、彼の半生において貫き通されたのが、言葉に拠らない表現とコミュニケーションへ寄せる信頼であること、とりわけ身体的な表現ーーダンスにおいてそれが獲得される感覚だと知ることができる。

 16歳の時に、彼がクリーム色のボタンダウン、黒のニットタイ、チェックのジャケットを着て初めて出かけていったダンスパーティの様子から始まり、1999年に自らプロデュースした東京はお台場の「ソウルトレインカフェ」でドン・コーネリアスからスティービー・ワンダーを紹介される瞬間まで、もしくはその後、10代の頃からの仲間たちとの別離についてさかれた哀切に満ちたエピローグまで、彼は音楽や身体や、もしくはグラフィカルな表現とコミュニケーションを独自に学び、生きていく術に利用する。この回想記の副題にある“ストリートダンサーズ列伝”の“ストリート”は、必ずしも路上だけではなくて、クラシックバレエやコンテンポラリーダンスといった“制度”の裡で生まれ、容認され、体系化されてきた形式以外での、ダンスというコミュニケーションが実践されるすべての場のことだ。

 後年、佐野元春は彼のキャリアとヒップホップの創世記が珍しくも結びついた数少ない曲の「Complication Shakedown」では、この“制度”を生み落とし操作している全体像を“体制(システム)”と呼び、サビで繰り返し登場させていることを記しておく。ビート世代流儀で作られた最良のポップ音楽の創作物のひとつ、ボブ・ディランの「Subterranean Homesick Blues」をコンテンポラリーに解釈したというこの「Complication Shakedown」は、佐野元春が居住していた1980年代初頭のニューヨークという都市の生活と経験の観察記でもあり、彼の作品群のなかで稀な(ラップ/ヒップホップという)ダンスミュージックだ。そこで人々は〈ユウウツな気分〉を振り落とし、〈とりとめない状況〉のなか〈歩き続け〉るために、〈ディスコテイク〉へ出かけていく。

 江守の『黒く踊れ!』のなかで回想される半生は、すべての他の軌跡と同じように様々な出来事によって彩られているが、言葉で構築されているこの私たちの世界におけるそうした行き違いや失敗の弁済をするのは、1966年の新宿に現れた「ジ・アザー」から彼が経験していきながら、そのうち彼の仕事に人生へと密接に重なりあっていく空間、ディスコなのである。1960年代に踊り場と呼ばれた空間は、70年代を通し80年代へ向かってディスコへと変容していった。The Rolling StonesとThe Temptations、ジェームス・ブラウンとRare Earthが交互に鳴り響く、若き立花ハジメやPANTAがダンスしていたそうした空間の音は、時代と江守のような情熱を持った人間たちにより少しずつ黒く塗られていった。

「見ちゃった。ジェイムス・ブラウンには、オチンチンがないって噂を聞いて、見てみたくなったから…。本当かどうか、この目で確かめようと思って、なけなしのお金をはたいて見に行ったの、とてもすごかったよ。なぜか人間じゃないみたい。超人的な、そう、やっぱり「ダイナマイト」、「爆発」…って感じね。黒い人って、男の人も女の人もとてもセクシーでかっこいいよ。彼等の体内で脈打つリズムは、とても暴力的で、とてもクールで、とてもホットで、ほんとにとてもかっこいいと思った」(モモヨ(紅蜥蜴)『ニューミュージックマガジン』1973年5月号)

 引用は来日を機会に特集されたアンケート記事( ジェイムス・ブラウン日本公演をごらんになりましたか? )からだが、モモヨがボーカリストだった東京は東側、下町からの紅蜥蜴は1977年にヘンリー・ミラーの小説から名付けられた曲「SEXUS」を自らリリースした後にリザードと名前を変え、フリクションやミラーズといったバンドらと並び東京のパンク・ムーブメント、“東京ロッカーズ”の代表的な存在のひとつとなる。

 「なけなしの」とモモヨの答えに書かれているジェームス・ブラウンの公演は入場料5,500円で、同時期のローランド・カークの公演が1,500円。ジャズの前衛と比較していかにソウル/ファンクのコンサートが見せ物として期待されていたかが想像できるーー確かに全盛期のブラウンのショーはその期待を裏切らなかったはずだ。性転換についての噂は、1965年に合衆国で宣伝スタントとして流されたものが日本に漂着したものだろうが、むしろ1960年代から地続きの“性と革命”の時代に相応しいセクシャリティについての観念の揺らぎが、ブラウンの卓越した身体性への感嘆と結びつくのが興味深い。それは、政治的イデオロギーの混迷がはっきりした1968年以後の状況において紅蜥蜴がバンドとして追求していた主題のひとつ、経済の発展と急速な都市化の時代に拘束されていた身体と精神の問題とも関係がある。こうした主題は、紅蜥蜴/リザードだけでなく、のちの暗黒大陸じゃがたら、もしくは京都のEP-4といったバンド/ユニットでも同時代意識として共有され変奏されていた。

 建築家の伊丹潤がオーナーとなってプロデュースし、1968年にオープンした青山のディスコ「パルスビート」には横田基地からの黒人兵が多く、ソウルがプレイされていた。1971年には六本木に「メビウス」、後の全国ディスコ協会会長のドン勝本こと勝本謙次の「エンバシー」が開き、横須賀に着いていた船からの黒人兵たちが流れていたといわれる。「メビウス」にはおそらく日本で最初の女性DJの穴沢ヨシエが、そして「エンバシー」では後に音楽ライターとなる吉岡正晴がそれぞれプレイしていた。

 1974年、同じく六本木にアフロ・アメリカンのカルチャーの要素をコンセプトから細部にまで反映させたディスコ「ソウル・イン・アフロレイキ」を江守がプロデュースしてオープン。彼自身と基地勤務で経験のあるアメリカ人などがDJをしていたし、江守の依頼でラジオDJとしてすでに大御所であった糸居五郎も金曜日にプレイするようになった。同じ年には新宿に福生の横田基地からの黒人兵たちが仕事の合間にDJをしていたという「V-One」というディスコが出来た。一説によると、「V-One」で週末は500人の集客があったという。

 1975年に新宿に出来た「ビッグ・アップル」というディスコには、ラジオDJだった小林克也がプレイしており、翌年には、彼は風刺的なお笑いのためのプロジェクト「スネークマンショー」に参加した。1979年、その彼らが日本で最初のラップの試みをしたことはこの連載でも何回か触れた。「スネークマンショー」は、60年代のカウンターカルチャーの旗の下に創刊された『ジャーナル』の編集者(桑原茂一)にDJ(小林克也)、それに俳優(伊武雅刀)が加わって出来上がったのだった。

 糸居五郎や小林克也に象徴されるような、例えばラジオ(放送局)とディスコというまったく異なるふたつの場を行き来する新しいありかたが、少しずつ限定された人々のための限定された空間だったディスコを、異なった業界を含む他へと繫げていった。ソウル/ファンク/ディスコに注目していたA&Rやディレクターのいたレコード会社、コンサートをオーガナイズするイベンターが行っていたことは言うに及ばず、初期の「アフロレイキ」の母体の会社が関わり、ファッションブランドのJUNがスポンサーとなり、日本でもテレビ番組『ソウル・トレイン』の放映が深夜とはいえ1975年に開始され、音と光としてのディスコが日本を包んでいたメディアに侵入するようになっていく。

 江守は、彼の回想録で或る夜「アフロレイキ」に訪れてきた異色の客人たちについて語っている。

「フロントに行ってみると『アフロレイキ』にはまるで不似合いな連中がいた。厳つい6〜7人の男たちは全員が黒の革ジャン、革パンツにリーゼント。ポマードの匂いプンプンさせ立っていた。その中にいたひとりを見て驚きながらもボクは状況がのみ込めた。その男はジェームス藤木だった。(中略)ボクは新宿時代からジェームス藤木を知っていた。(中略)ボクが彼と親しくなるのも勝本が少し大人になって『ソウル・エンバシー』を始めてから。出入りしていたジェームス藤木とそこで話すようになった。ロックンローラーの彼も実はディスコ上がりでジェームス・ブラウンに憧れるソウル好きなのだ」(『黒く踊れ!―ストリートダンサーズ列伝』)

 ディスコだけではない。江守のいうジェームス藤木たち、つまりクールスが「大きなバイクを並べて、革ジャンを着てたむろ」していた「ビクター・レコードの並びにあった(中略)喫茶店のレオン」は、当時Roxy MusicのコピーをしていたPLASTICSのメンバー中西俊夫のいう、東京がNYやロンドンと同時進行する“ポップ・ライフ”が原宿において成立していったその中心にあった。中西はクールスの舘ひろしのイギリス人のガールフレンドを通じて館とも交流があった(『プラスチックスの上昇と下降、そしてメロンの理力・中西俊夫自伝』K&Bパブリッシャーズ、2013年)。クールスが“親衛隊”をしていた矢沢永吉、ジョニー大倉らキャロルの重要性についてはこの連載でも触れたが、キャロルはパリで行われた山本寛斎のファッションショーの重要なキャストだった。

      

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