グリーン・デイは日本でどう地位を築いた? 元名物A&R井本氏が明かすバンドの軌跡と現在地

グリーン・デイの変わらぬ魅力

「『ドゥーキー』以降も日本だけセールスが上り調子だった」

ーー『ドゥーキー』以降、バンドは『インソムニアック』(1995年)、『ニムロッド』(1997年)、『ウォーニング』(2000年)と作品を重ねていきます。

井本:グリーン・デイって『ドゥーキー』から『ウォーニング』まで、日本だけセールスが上り調子だったんですけど、アメリカやヨーロッパでは逆でセールスを落としていたんですよね。ところが『アメリカン・イディオット』のときはアメリカやヨーロッパで売り上げが一気に回復するんです。だから、あの頃の『アメリカン・イディオット』に関しての海外インタビューを翻訳すると、みんな「グリーン・デイが復活した」みたいな言い方をしてるんですよ。一回ダメになったけどまた戻ったみたいな。でも僕らにしてみると「いや、日本ではずっと売れてたし、何も変わってないんだけどなぁ」という思いがあったので、そういう記事がすごくイヤであちこち訂正した記憶があります。

ーーそうなんですよね。海外では『ドゥーキー』が1,000万枚以上売れたために、その後の作品がセールスを落とす中、日本では常に一定以上の人気とセールスを保っていて。

井本:海外ではツアーにはお客さんが入っていたのに、CDが全然ダメで。でも日本ではそんなことなかったんですよね。

ーーそういえば『アメリカン・イディオット』の前までは、頻繁に日本を訪れてましたよね。調べてみると、1996年1月の初来日、1997年7月のフジロック以降は、1998年3月にジャパンツアー、2000年8月に『SUMMER SONIC』初年度ヘッドライナー、2001年3月にジャパンツアー、2002年3月に『GREEN DAY FESTIVAL』開催、そして2004年8月に再びサマソニ出演と、ほぼ毎年のように来日しているんです。

井本:『GREEN DAY FESTIVAL』ありましたね。初来日のときはHi-STANDARDさんにお世話になり、『GREEN DAY FESTIVAL』ではSNAIL RAMPさん、GOING STEADYさん、MONGOL800さんに出演していただいて。今考えてもすごいメンツですよね。

「『ブールヴァード・オブ・ブロークン・ドリームス』を日本のお客が歌えなかった」

ーーそしてグリーン・デイは『アメリカン・イディオット』で再び頂点に達します。

井本:『アメリカン・イディオット』でさらにワンランク上に行きましたね。ビリーはリプレイスメンツやランシドみたいなバンドに憧れているのと同時に、ストーンズやビートルズのようなクラシックロックも好き。メロディアスなものが好きで、自分たちの曲を世の中の人に口ずさんでほしいという思いが強かったんです。それが「ブールヴァード・オブ・ブロークン・ドリームス」が世界的に大ヒットすることでついに実現した(※Billboard HOT100で最高2位)。ああいう曲をヒットさせることが、彼のかねがねの目標でありモチベーションだったみたいなんです。実際大ヒットしてすごく嬉しかったようですよ。日本でもラジオで1位を獲ったんですけど、歌えるかどうかとなるとまたちょっと別の問題で。

ーー確かに、日本人が口ずさめる洋楽ヒット曲とはちょっと違いますよね。

井本:日本のリスナーが歌える洋楽ヒット曲って限られてくると思うんです。これは苦労話になるんですけど、『アメリカン・イディオット』ジャパンツアーの名古屋公演の話で、アメリカやヨーロッパのライブで観客が大合唱する「ブールヴァード・オブ・ブロークン・ドリームス」を演奏するとお客さんが歌わなかった、いや、歌えなかったんですよ。そうやって歌える曲/歌えない曲の差って、日本人にとって難しい単語がどれだけ入ってるか、どれだけ日本人が歌いやすいメロディかどうかなんですよね。そこの壁を乗り越えることができたら、みんなが合唱して定着していくんでしょうけど、「バスケット・ケース」は歌えます、「マイノリティ」は歌えます、でも「ブールヴァード・オブ・ブロークン・ドリームス」は難しいですという、そこの線引きは間違いなく存在するんじゃないかと。

ーーなるほど、わかります。

井本:あのときはR.E.M.とグリーン・デイが同じ時期に日本でツアーしていて、僕はその日はたまたまR.E.M.に付いて大阪にいて。ある朝ホテルで身支度をしていたらアメリカのワーナー本社から電話がかかってきて、「グリーン・デイのマネージャーとつなぐから、今から3人で話そう」ということになったんです。「何が起きたんだろう?」と思っていたら、マネージャーが「ビリーが『日本であの曲を演奏したら、誰も歌わない。あの曲は日本では全然ヒットしてないのか?』と言ってる。実際のところ、どうなの?」と聞いてくるんです。「いやいや、あの曲は日本でもラジオで1位を獲ってるし、チャートでも1位を獲ってるし、しっかりヒットしてるんだよ。ただ、日本人が歌うには言語的に難しい。今、お前歌ってみろと言われたら、僕はあの曲のサビ、歌えませんし。それはしょうがないことですよ」と伝えると、今度は「えっ、そうなの? 歌えないの? そうか、じゃあそれをビリーに伝えてあげてくれ」と言われて(笑)。

ーーマネージャーが伝えないんですね(笑)。

井本:そうなんですよ(笑)。しょうがないから、ビリーが乗る新幹線と同じ便に大阪から乗って、名古屋で彼と合流したんです。でもビリーはその一件をすごく気にしていたみたいで、結局幕張に到着するまでちゃんと話ができなくて。会場に着いてサウンドチェックが終わった後に改めてビリーと話したら、「えっ、そうなの? 俺、そんなに気にしてないよ?」と言って強がってるのがわかるんですよ(笑)。それで、「あの歌詞は僕でも歌えないよ。もし日本人が合唱するんなら、「ウェイク・ミー・アップ・ホウェン・セプテンバー・エンズ』のほうが歌いやすいんじゃないかな。試しにあの曲、サビのところだけでも振ってごらん。たぶん「ブールヴァード・オブ・ブロークン・ドリームス』よりも歌える人がたくさんいるはずだから。その違いはアメリカ人の君たちからしたらわかりにくいだろうけど、歌えないからといって別にヒットしてないということではないから安心してよ」と説明したんです。もう必死で、すごく緊迫した思い出ですね。

ーー正直、「ブールヴァード・オブ・ブロークン・ドリームス」は日本人が好むタイプとはちょっと違いますし、当時は「これがアメリカではウケるんだ!」と驚いた記憶があります。

井本:僕も思いました。人生の影を何かに比喩しているような曲だから、そこでのわかりにくさもあるし。日本のマーケットの場合、1stシングルでアルバムセールスに決着がついてしまうことが多くて、そこが常々課題だったんです。でもアメリカのマーケットでは2ndシングル以降で勝負をかけることが多いんですね。『アメリカン・イディオット』は日本でも初動で25万枚ぐらい売れたんですけど、そこから先が伸びにくかった。で、2ndシングル「ブールヴァード・オブ・ブロークン・ドリームス」を世界的に1位に!と本社から激があったんですけど、難しいなと思いながら頑張ってプロモーションして。結果的には50万枚を超えるんですけど、初動から倍にする努力という意味ではすごくいい勉強になりました。ちょうど2ndシングルのヒット中に来日公演があったので、日本というのは特殊なマーケットなんだと双方にとってもよくわかったのかなという気がします。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「インタビュー」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる