「21世紀のR&Bバラードは90年代の余韻」松尾潔の考える、R&Bの変わらないスタイルと美学

松尾潔の考える、R&Bの変わらない美学

 今年6月に音楽評論集『松尾潔のメロウな季節』を上梓した松尾潔氏を、3時間半に渡るロングインタビューで直撃した、栗原裕一郎氏による連載『栗原裕一郎の音楽本レビュー』の特別編。前編【松尾潔が明かす、R&Bの歴史を“メロウ”に語る理由「偶然見つけたその人の真実も尊重したい」】では音楽ライターとしてそのキャリアをスタートさせ、R&B界の大御所を次々と取材する一方、作詞家、作曲家、プロデューサーとして平井堅やCHEMISTRY、EXILE、JUJUなどを手がける同氏の書き手としてのキャリアを深堀りした。後編ではR&Bの歴史と美学、日本の歌謡曲への影響、さらに歌詞分析に偏重しがちな日本の音楽評論についてなど、刺激的な討論が繰り広げられた。(編集部)

――日本におけるR&Bの受容が本格的に始まったのって、1980年代後半からという理解でいいでしょうか。

松尾:もちろんそれ以前も好事家に支持されてはきましたが、商業音楽としてメインストリームに入ってきたのは80年代の後半という印象があります。ボビー・ブラウンも日本で広く知られるようになったのは88年くらいですか。彼はTBCのCMに出演したんですよね。黒人男性スターがエステ会社のコマーシャルに登場したのは、当時としては画期的でした。70年代にサミー・デイヴィスJr.がサントリーホワイトのCMに出演して人気を博したことが長らく「例外の例」として語られてきたほどで、ボビー以前に食品や美容の広告にアフリカ系のスターが起用されるというのは基本的にはありえないことでしたから。

――前回も話に出ましたが、久保田利伸のデビューが86年。岡村靖幸もソロデビューは86年ですね。その頃、岡村ちゃんがブラック・ミュージックをやっているらしいと思った人がどれほどいたか。ボビー・ブラウンも「ボビ男」に象徴されるように、六本木のディスコあたりの風俗としてまず広がった印象でした。

松尾:そうですね。ボビー・ブラウンとM.C.ハマーの2人は特別な存在でした。ボビーはダンスがあれだけ得意でしたから、「ビジュアル言語において饒舌なミュージシャン」という見方をされていましたね。アメリカ国内では彼に匹敵するステイタスのシンガーは結構いましたし、M.C.ハマーが流行していた同時期にアメリカではN.W.A.も人気爆発していました。でも日本においては、R&Bにせよヒップホップにせよ、ダンスの上手なスターに言語の壁を越える力があったということでしょうね。その余波として「ダンス甲子園」なんていうテレビ番組の企画もありましたし。

――「ダンス甲子園」! LL BROTHERS! 山本太郎!(笑)

 当時はそもそもニュー・ジャック・スウィングがどういうものなのかとか、それが黒人音楽としてどういう位置づけなのか、たとえばマイケル・ジャクソンと同じ種類の音楽なのかとか、自分自身も含めてあまりよくわかっていない人が多かった気がします。イメージが固まり出すのは90年代に入ってからでしょうかね。

松尾:ファッションも含めて、R&Bという言葉で喚起されるいろいろなイメージが、90年代に入ってから完成したということかもしれないですね。ヒップホップなら太めのシルエットのデニムジーンズにアウターとか。

 ボビー・ブラウンは、ジャクソン・ファイヴ(J5)のフォロワー・グループである黒人キッズ・グループ、ニュー・エディション(NE)のメンバーでした。マイケル・ジャクソンがソロ活動に軸足を移した後に、モーリス・スターという目ざとい黒人プロデューサーがNEを立ち上げました。でも成功を収めた後にモーリスとNEは決裂してしまう。ただでは転ばないモーリスは、白人メンバーだけならもっと儲かるだろうと見込んで、今度はニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックを世に送り出す。彼らが日本を含む世界中で現象的な人気を博したのはご存じでしょう。そんな具合に「J5的なグループ」というイメージが伝播拡散した後にスピンオフしてきたのがボビー・ブラウンなんです。そう考えると、本来はマイケル・ジャクソンとボビー・ブラウンは繋がっているはずなんですね。ボビーが「ネクスト・マイケル・ジャクソン」というイメージで売り出そうとされていたのは明らかですし。

 その後、ネクスト・ボビーという位置付けでアッシャーが、そしてクリス・ブラウンがデビューしました。クリス・ブラウンに至ってはもはや中間を飛び越えてネクスト・マイケルというイメージを抱く人もいるかもしれませんが、彼自身も明らかにそのイメージを意識した音作りすることがありますね。

 マイケル・ジャクソンという人物は、ブラック・コミュニティーの中で一定の存在感を持ったミュージシャンであると言えますが、ただ、ああいう人なので……誤解はついて回りましたよね(苦笑)。スパイク・リーが『マルコムX』の製作で資金難に陥ったときは出資者に名を連ねましたし、『ゲット・オン・ザ・バス』という映画を撮影したときにもマイケルは「On The Line」というベイビーフェイス作の素晴らしいバラードを提供しています。つまりアフリカ系の出自が問われるような場面で積極的な態度をとってきた人なんですが、なにしろ見た目がああだったので、アメリカ国内でも彼の思いは伝わりづらかったのかもしれません。

 マイケルは実はアフロ・セントリックとさえ言える思想の主でした。肌の脱色疑惑については、実は尋常性白斑だったということが今では明らかになっています。ストレートヘアーや、黒人固有の特徴からかけ離れてしまった鼻や顎の形状の極端な変化を、彼の「白人と同化したい」という強い気持ちの証左とする見方は根強いですが、仮にそうだとしても、それは非白人にしかありえない心情ですから。

――変身願望ですもんね。

松尾:マイケルも、自分の心情がアフリカン・アメリカンであるがゆえのものだと自覚していたと思います。アフリカン・アメリカンのコミュニティのおばちゃんたちが好んで読む雑誌では、当時「肌の色を変えることが良くないと責められるのなら、髪の毛を直毛にすることはどうなんだ」というような論争が盛んに行われていたものです。結構な時間や手間をかけて、彼女たちは縮毛を矯正してきたわけですからね。今ではぼくもその手の雑誌を以前ほど読まなくなりましたが。

 黒人がサラサラの髪をしていることに対して、日本人もさすがに最近は違和感を覚えなくなってきましたよね。子供の頃ぼくたちが黒人に抱いていたイメージってアフロだったわけですが、今の20代の人たちにはそういうイメージはないでしょうね。

――(編集部20代N氏)ないです。

松尾:今の若いブラックの男の子たちにはスキンヘッドにしている人も少なくないですが、それってマイケル・ジョーダン以降なんですよね。最初は若ハゲ隠しだなんて陰口も囁かれたジョーダンのスキンヘッドでしたが、だんだんとかっこいいものとしてアスリートやヒップホップ・ミュージシャンのイメージとして定着していきました。日本でも円山町あたりのヒップホップ系クラブに行くとたくさんの男の子たちがスキンヘッドにしていますが、ヒップホップが好きなら日本人でも坊主頭にするというのも、考えたらおかしな話ですよね(笑)。

ブルーノートの刷り込み

――松尾さんがブラック・ミュージックに開眼したのはお幾つくらいの頃だったんですか。

松尾:父親がジャズ好きで、自宅ではジャズのレコードが普段から流れていました。彼の聴く音楽を自然と心地よいと感じるようになっていったんですが、そこでブルーノート・スケールの刷り込みがなされたんでしょうね。クラシック・ピアノも習っていたんですが、ピアノ教師に教わる音楽とはどうも違う。スケールの違いのような細かいことまで考えたわけではないですが、子供ながらに「この違いはなんだろう。お父さんの聴いている音楽のほうが気持ちよく感じるし、大人っぽくてかっこいい」と思っていました。大人っぽく感じたのは、父親がお酒を飲みながらジャズを聴いている姿を見ていたからだと思いますが(笑)。

 ブラック・ミュージックが好きだとはっきり自覚したのは……中学の1、2年生の頃だったと思います。最近、実家に帰ったときに小学生時代の寄せ書きを読み返していたら「好きな歌手」が書いてあったんですが、そこには特に黒人ミュージシャンの名前はなかったですね。普通にYMOとか松任谷由実、山下達郎の名前が書いてありました。

――ほほう、すごく普通ですね。松尾さんがユーミンというのは意外ですけど。達郎はちょっとマセた感じですかね。

松尾:達郎さんやユーミンは65年生まれの姉の影響があったからだと思います。小学生の終り頃から中学にかけてアース・ウィンド・アンド・ファイアーやクインシー・ジョーンズのヒット曲をラジオで何となく聴くようになって、その種の音楽にやたら耳が反応していることを自覚するようになりました。

――そこでブルーノートの刷り込みが発現したわけですね(笑)。

松尾:ぼくは博多の出身ですが、周囲には、セックス・ピストルズなどパンクロックが好きな人たちが多かったんです。でもそういう音楽には今ひとつ乗りきれない自分を感じていました。学校ではわかる振りをして、物分りの良さをアピールしながらロック好きの友達と会話していましたが、腹の底では「ディストーションが強いギターの音って苦手かも」なんてことを思ってたんです。

 高校生になってバンドを始めるんですが、バンドをやるような友達は大抵ロック志向なんですよね。自分はジョニー・ギルとか、ジェフリー・オズボーン、ライオネル・リッチーなんかを友達と演奏したいと思っていたんですが、誰も賛同してくれない(笑)。まず、彼らがどういうミュージシャンなのかというところから説明しなければいけないような状況でした。折衷案としてポリスやスタイル・カウンシル辺りをやってみたり。

 ただ、ぼくは中学2、3年生の頃から中古レコード屋なんかに入り浸っていまして、年上のおじさんたちから、なんというかこう……

――手解きされた?

松尾:そうです(笑)。誕生日のプレゼントにビル・ウィザーズのベスト・アルバムをプレゼントしてもらったり、「あんた本当に面白い趣味しているね、これあげるよ。おカネなんかいいから」とレコードをもらったり、というイイ話もあります。いまだにその頃のおじさんたちとはお付き合いがあるんですよ。

――いいエピソードですねえ。今、ライオネル・リッチーの名前が出ましたが、西寺郷太さんが最近出された『ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い』でもライオネルがフィーチャーされていました。

松尾:ああ、そうですか。郷太くんから献本してもらったんですが、まだしっかりと読めていないんですよ。

――西寺さんもお書きになっていますが、「We Are The World」を作詞作曲したマイケル・ジャクソンとライオネル・リッチーというのは、MTVに黒人が登場するようになった最初の頃の人たちですよね。マイケルの「Billie Jean」をきっかけに黒人ミュージシャンのミュージック・ビデオも流されるようになったと言われています。MTVでライオネル・リッチーを初めて見たときに、ぼくは混乱したような覚えがあるんですね。インパクトのあるルックスですし(笑)、この人はどういう人でどういう音楽なんだろうと。

松尾:ぼくは当時のMTVについては後追いで得た知識しかないんですよ。ロックがほとんどだから大して興味なかった。たしかに、当時のアメリカで黒人スターが歌う姿をテレビで見る機会は、現在とは比べようもなく少なかったでしょう。その頃アメリカにいた知人からそう聞いたことはあります。でもライオネル・リッチーに関して言うと、彼の在籍していたコモドアーズは超のつく人気ファンク・バンドでクロスオーバー・ヒットも数多く出していたわけですから、日本でもディスコ・ミュージック・ファンや全米トップ40ヒットをくまなくチェックするような人たちの間では有名だったわけですが。

「ライブ・エイド」が85年にありましたよね。ぼくが高3の夏でした。大好きなパティ・ラベルがステージに登場してジョン・レノンの「Imagine」のカバーなどを歌いました。同じ黒人女性スターですとティナ・ターナーも出演していて、彼女は日本のロック・フィールドの人たちにも総じて受けがいいんですが、パティがテレビに映ったときの視聴者からの反応は「誰だ、この声のデカいおばちゃんは?」というものだったらしくて。画面がフジテレビのスタジオに戻っても、番組司会の逸見政孝や南こうせつは、パティについて何と語れば?と困惑していたという(笑)。

 そもそも80年代はアメリカ国内でも、黒人アーティストのライブに白人がオーディエンスとして観にくるということはまだ一般的ではなかったようです。ぼくは90年代からこういう仕事に携わるようになりアメリカにも頻繁に行くようになりましたが、いわゆるオーセンティックなR&Bシンガーのライブに足を運んでも、白人のお客さんを見かけることはほとんどなかったですね。

――90年代に入ってもまだそういう状況だったんですか。

松尾:そうなんです。当時はまだ、一般の白人家庭では、R&Bをラジオで聴いたり、ミュージックテープを購入したりはしても、ライブを聴きに足を運ぶというところまではいかないという時期だったようです。

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